明治の頃まで高田橋は大きな橋ではなく、木造の小さな橋であった。
昭和29年(1954年)に高田中学を卒業した飯田在住の方によれば、高田橋は昭和27年頃(1952年頃)の台風や豪雨で頻繁に流されてしまい、中学に通う3年間で何度も牧田川の河床を歩いた。台風などで橋が流されて、新しく架けかわった橋もまたすぐに流された。
多芸東部地区の直江の人が水の中に線路を引いて牧田川の改修に使用していた。牧田川に水が流れている時は、本来は子供の通学用ではなかったが、その線路に杭を打って、上に道板を一枚敷いてトロッコを渡してくれた。
水が増えると、流されてしまう前に順番に橋の上の板を取り除いてしまうので、杭伝いに川を渡った。男も女も関係なしに川の中を歩いた。冬はとても寒かった。
雨降りの時は、学校が終わると急いで帰ったが、牧田川の水の流れがきついので、子供が一人で渡るのは怖かった。周りに誰もいないと、一緒に渡る人が来るまで待って、上流をわたると流れがきつくて足をとられるので、下流をわたった。脚を大きく上げると流されそうになるので、かにいざりで渡った。
現在も老人クラブの方が通学路に立ってくれるが、昭和20年代は水量が多い時だけ多芸東部地区の直江や金屋の人が監視に出て来てくれた。
現在スポーツ用品メーカーとして世界的に有名な美津濃(みずの)の工場は第二次世界大戦中は、海軍の指定の軍需工場だった。
昭和34年の伊勢湾台風のときには2回牧田川の堤防が決壊しており、南直江から押越まで水没した。1回目の豪雨の方が被害が大きく藤井ハウス(押越1974)も水没した。
栗笠湊から九里半街道の碑のある場所までの街道の道筋ははっきりとしない。
九里半街道は農協のあたりから金草川の北側、下の堤防あたりではないかと考えている。そのあたりの道であれば高田の町に入るにも地の利がある。
口ヶ島字寺田地内の屋敷に道標がある。
九里半街道の道標は産業文化会館の駐車場に1本、成瀬氏の庭に5-6本、養老町役場の前に1本あった。産業文化会館の駐車場の道標には「伊勢道、大垣道、養老たき道道標」と記されている。
滋賀県の人々が伊勢代参に向かう時、九里半街道が使われることもあった。A氏がご祖父に聞いた所では、小野氏の家の前の下笠輪中の堤防を通り、大場を経て根古地の湊から船で桑名に出た。あるいは根古地で旅館に一泊したとのことである。
近鉄養老線は養老山麓側を通すというものと、海津市平田町の今尾を通すという2つの案があった。最終的に養老山麓側に近鉄養老線が開通したのは、佐竹直太郎氏の影響力ではないだろうかと思う。近鉄養老線開通に伴う烏江駅設置には牧田川改修工事も大きく絡んでいる。
近鉄養老線を揖斐川町から福井県の敦賀に通す計画もあったという噂を聞いた。
近鉄養老線は明治24年(1891)、濃尾震災の後に土地を調べて水のつかない所で地盤の固い所を調べた上で線路が敷かれた。大正8年(1919)に養老~桑名間が開通した。
大垣市のイビデン㈱が近鉄に電力の供給をした。また、イビデンは、近鉄の株主でもあった。
烏江駅改修前の鉄橋の一部が烏江駅高架下に残っている。
揖斐川の上流の揖斐川町岡島橋に近鉄養老線関係者の石碑がある。
養老鉄道の創設者は立川勇次郎氏である。烏江駅の場所は開通当初と変わっていないであろう。大正12年(1923)には養老鉄道は電化されていたが、昭和19・20年(1944・1945)の戦時中に一時空襲による停電を想定して蒸気機関車が運行していた。