若宮では、昭和の中頃までは大竹の節を抜いてパイプを作り、若宮の八幡神社の辺りから水を引いていた。水が涸れたことは一度も無い。同じ水路を周囲の4~5軒が利用していた。また、八幡神社の近くの大きな池を溜池にして、防火用水として使っていた。昔は子供がそこで泳いでいた。
若宮には平成20年までグリーンハイツ養老という、温泉施設つきの国民健康保険センターがあった。
若宮は現在28軒くらいあり、組は10軒が2組と8軒1組、合計3組に分かれている。戸数は昔からあまり変わっていない。
A氏のお宅の屋根の上に鍾馗像があり、本屋から小屋の方に向かって見守るように建てられている。若宮の辺りで鍾馗像はあまり見かけないが、A氏が建築の仕事に関わっていたことからこういったことに詳しかったので鍾馗像を建てた。
一色で火葬がはじまったのは終戦後、養老町の斎場ができてからである。それまでは胴藁で友焼きをしていた。一色の辺りの土には岩が混じりあまり棺が大きいと棺を埋める穴を掘るのが大変だった。穴の深さは50~60cmと、できるだけ浅くしていた。
一色村の庄屋はずっと襲名制だった。土地は多い時には土地を7~8反持っていた。地主は3名いた。
昔は津屋一色という言い方をしたが、これは津屋と一色の関係の深さを示していた。現在一色は養老町、津屋は海津市である。
下池は岐阜県1位の広さを誇る池だった。
横屋330のA氏宅の東側の道路は昔、川で船着場があった。一色の人はここまでは荷物を牛で運び、ここからは笹舟で荷を運ぶ為にA氏宅の垣根の槙に牛を繋いで行った。牛の角で擦られて槙が枯れてしまうので、A氏の祖父が「牛繋ぐな」と張り紙をしたが他に繋ぐ所がないので仕方なく繋がせた。横屋の船着場は、横屋字南筋にあった。
下池では、竹で編んだ籠を立てて魚を迷いこませ、最後に竹に網をつけてすくう「えり漁法」が行われていた。他にも、竹の節を抜き筒状にした仕掛けを池に沈めてウナギを獲っていた。
横屋の周辺は堀田が多くあったが、昭和35年以降の耕地整理時に全て埋められた。堀田に発動機を持って行き、稲刈り後モミにしてから舟で運んでいた。
横屋の170戸中9割が下池の漁師であった。桑名や名古屋へエビや魚を売りに行った。
小倉の辺りは昭和の頃は林業、小作農、養蚕が主だった産業だった。
一色の辺りでは飼料用の米を作っていた。
昭和30年代頃までは養蚕が盛んだった。やがて蚕畑から柿畑に変わっていった。柿畑を全て合わせると1町以上あったと思う。
一色には牛が多く、馬を飼っている所は無かった。現在のペタンク会場が牛の爪きり場だった。
戦時中は百姓仕事、砂防工事の他、軍事工場でも働いた。子供の頃は柿やミカンを作っていたセキヤ果樹園の草取りなどのアルバイトをした。
田地区では昭和30年代には漁をする人がいて鴨や雁を捕っていた。三ツ屋の魚屋が取りまとめて仲買いをしていた。
有尾には生活のために漁をしていた人はいなかった。