下池では、竹で編んだ籠を立てて魚を迷いこませ、最後に竹に網をつけてすくう「えり漁法」が行われていた。他にも、竹の節を抜き筒状にした仕掛けを池に沈めてウナギを獲っていた。
横屋の周辺は堀田が多くあったが、昭和35年以降の耕地整理時に全て埋められた。堀田に発動機を持って行き、稲刈り後モミにしてから舟で運んでいた。
横屋の170戸中9割が下池の漁師であった。桑名や名古屋へエビや魚を売りに行った。
小倉の辺りは昭和の頃は林業、小作農、養蚕が主だった産業だった。
一色の辺りでは飼料用の米を作っていた。
昭和30年代頃までは養蚕が盛んだった。やがて蚕畑から柿畑に変わっていった。柿畑を全て合わせると1町以上あったと思う。
一色には牛が多く、馬を飼っている所は無かった。現在のペタンク会場が牛の爪きり場だった。
戦時中は百姓仕事、砂防工事の他、軍事工場でも働いた。子供の頃は柿やミカンを作っていたセキヤ果樹園の草取りなどのアルバイトをした。
田地区では昭和30年代には漁をする人がいて鴨や雁を捕っていた。三ツ屋の魚屋が取りまとめて仲買いをしていた。
有尾には生活のために漁をしていた人はいなかった。

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表示位置は下池を示している。