真泉寺は、養老町沢田59-2-1番地にある浄土真宗の寺である。もとは天台宗大威徳山正願寺(だいいとくさん しょうがんじ)と称したが、大永3年(1523)に浄土真宗に転じ、真泉寺と改めた。真泉寺本堂狭間は彫り物師佐竹民弥の作で、養老町の有形文化財(彫刻)に指定されている。本尊は阿弥陀如来である。
2010年10月に真泉寺境内において、長井生(いきる)氏より寄進された東莠南畝讖(とうゆうなんぼしん)記念碑の除幕法要が営まれた。東莠南畝讖は、江戸時代の彩色動植物図譜で、沢田周辺の動植物が描かれている。中でも「錦蝶」の名で描かれているギフチョウは、その正確な図が示される日本最古の動植物図譜ではないかといわれている。
東莠南畝讖は真泉寺8代目住職毘留舎耶谷(びるしゃなや)、法名玄香(げんこう)が書いたとされているが、それは寺の過去帳から見た歴代住職と東莠南畝讖の作成年代を突き合わせて判断しているのであって、確実な話とは言えないと考えている。
沢田は現在110数戸だが、真泉寺の門徒が多い。

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真源寺では報恩講は1月の左義長と合わせて、かつては4日間行っていた。2010年現在は2日間で、2日目に左義長を行う。お粥を炊いたり、地域住民がお参りをする。
真源寺は道場である。町内には門徒を持っていない。桜井の住民は、専明寺のほかに、西源寺など、桜井以外の地区にあるお寺を手次ぎ寺に持つ。真源寺の本堂は平成当初に約一千万円かけて建て替えた。最近は外門徒でも総代や年行司を受け持っている。

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浄誓寺(じょうせいじ)は、養老町石畑1069番地にある。元は天台宗誓願寺(せいがんじ)といったが、蓮如上人(れんにょしょうにん)の教化により、明応4年(1495)に浄土真宗に改宗し寺名を浄誓寺と改称した。本尊は阿弥陀如来である。
浄誓寺は信長の兵火によって焼かれたという説もある。
2012年現在のご住職の椿井氏は27代目である。一代を仮に30年としても、浄誓寺は700~800年の歴史がある。
文書で浄誓寺の名称が確認できるのは江戸時代以降である。それ以前は俗称の多藝庄椿井郷(たぎのしょうつばいごう)と記されている。
ご住職の椿井氏の苗字は椿井郷という地名が由来となっている。椿井と名付けられる前は、野村という苗字であったという説もあるが詳細は不明である。
浄誓寺は奈良時代に創建されたという話も聞いたことがあるが、最も古い記録でも応永8年(1401)までで、それ以前の資料は今のところ見つかっていない。大仏開眼1250年の法要が東大寺で行われた際の資料には、行基に関係のある寺院が岐阜県内には13ヶ寺あると記されており、浄誓寺から最も近い寺院は海津市の行基寺であった。浄誓寺の前身は行基信仰と関わりがあるのではないかと、色々調べてみたが行基が浄誓寺付近を訪れたという記録は見つからなかった。
浄誓寺の御本尊は高さ80cm程の椿の木で彫られた阿弥陀如来像である。養老郡志や浄誓寺文書には阿弥陀如来像には金箔が貼られていたと記されているが、現在は真っ黒で金箔を貼ってあった形跡はない。御本尊の製作年代の詳細は不明であるが、かなり古いもので南北朝時代(1336~1392)あたりと思われる。御本尊はやや前傾しており、このように傾きのある仏像は少ない。御本尊のなかに仏師の名が刻まれていることがあるが、未調査である。浄誓寺は今から160年程前に本堂が火災に遭っているが、「何があっても本尊を真っ先に持ち出すこと」という教えが守られ、御本尊は無事であった。
古い庫裏(くり)の鬼瓦が境内に残っており、文政11年(1828)3月の年号と桑名の瓦師の銘が入っている。庫裏は建てられてから250年以上経過している。
天保14年(1843)に浄誓寺で失火による火災があった。現在の本堂は安政元年(1854)に再建された。本堂にはご本尊を祀る内陣がある。本堂に内陣のある造りの寺院は少ない。一般の門徒は内陣に立ち入る事はできない。
報恩講の際には、僧侶が内陣に20名程並んで御勤めをされる。
本堂には再建後に置かれた安政5年(1858)の賽銭箱がある。また、本堂の石積みに黒く変色したものがあるが、火災によって焼けた石ではないだろうかと思う。
浄誓寺にあった釣り鐘は古いものであったが、戦時中に供出されてしまった。釣鐘はいわれのあるものであり、学者が調査に来たこともあると聞いている。浄誓寺には多くの文書等が保管されていたが、火災や室戸台風(1934)の折に雨漏りなどで痛んでしまったため、先代がその大半を処分してしまった。
火災に遭う前の礎石が浄誓寺の境内に3つ残っている。礎石は江戸期のもので中心が四角く削られており、かなり大きい。前の御堂の向拝柱(こうはいばしら)の礎石ではないだろうか。もとの御堂は天台造りの本葺き屋根で2層になっており、場所は現在の本堂と同じ場所に建てられていた。
境内から地蔵堂に抜ける石段の一部にも礎石のような石が使われている。
浄誓寺の中庭には、本堂から火災が発生した時に庫裏への類焼を食い止めたカヤの木が残っている。木の幹の皮肌のみであるが現在も生きている。このカヤの木は守りの木として評判になり、現住職が子供の頃、1940年代にカヤの木の逸話についてよく尋ねられた。
侘助椿(わびすけつばき)も火災により下の根の部分まで焼けてしまったが、現在は、焼けた跡は残っているものの立派な花を咲かせるまでに復活した。織田信長の弟である有楽斎如庵(ゆうらくさいにょあん)が茶花(ちゃばな)として椿を大事にしたことから椿が流行し、浄誓寺にも植えられたと伝わっている。
槙の木は、本堂まで枝が広がっていたが、雪の重みで折れてしまった。枝が折れた跡があるが丈夫で、侘助椿よりも更に古く、樹齢は500年ともいわれており、火に強く火災にも耐え抜いた。
侘助椿と槙は養老町指定文化財とされている。
浄誓寺には、南濃町志津の門徒がおり、志津の辺りに浄誓寺の小さなお堂を建てたという記録が残っている。
勢至には浄誓寺の門徒はほとんどなく、鷲巣の専明寺門徒か宇田の西勝寺門徒が多い。
浄誓寺では、現在は、葬儀の際の在家への御代本の貸し出しは、ほとんど行っていない。
濃尾震災では浄誓寺本堂の瓦が落ちた。
浄誓寺境内にはつるべ井戸があったが現在は埋めてしまった。滑車は現在も浄誓寺で保管されている。
浄誓寺の裏の水路は昔は荒れた川で、浄誓寺の敷地内に流れ込む事もあった。長く雨が降り続くと浄誓寺の裏に自噴水が湧いた。安八町で堤防が切れた際も、浄誓寺の裏を確認したら、水が吹いてきていた。近隣では床下に水が吹くところもある。
浄誓寺東の地蔵堂の前の道に沿って水路があった。

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柏尾寺は養老町柏尾にかつて存在した寺であり、山号は柏尾山であった。寺跡は昭和37年岐阜県史蹟に指定されており、付近から出土した石仏千二百余体を集めて祀った千体仏がある。
高田の安田笹市(やすだ ささいち)氏が、夢で柏尾寺跡に梵鐘が埋まっているとお告げを受け、周辺の住民を動員し掘り起こしたところ、梵鐘はなかったが石仏が多数見つかり千体仏として祀られるようになった。最初は夢のお告げを主張する笹市氏をからかう者もいた。当時の様子を歌にしたものが、近藤敏雄氏が柏尾寺についてまとめた書類の中にある。柏尾の地蔵盆には安田笹市氏の孫に当たる鷲巣の安田氏が現在も家族で参られる。
現在でも柏尾の周辺の山を掘ると石仏や五輪塔が出てくる。宿坊もあちこちにあったのではないかと考えている。
柏尾寺の阿弥陀堂に安置されていた座像が2010年現在、滋賀県彦根市の竜潭寺(リょうたんじ)にある。裏書に柏尾寺の名が入っている。なぜ彦根に移ったのか、経緯は不明である。

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平成22年度の養老町悉皆調査で上之郷の燈籠の古写真の情報を得た。

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