明徳の湊跡は、明徳村字柳原で湧水を利用してわさび田を作っていた時に土中から神代杉が出てきたが、その辺りではないかと考えている。
明徳湊跡には、近年まで船繋ぎ岩が有った。開発によって持ち去られたとの事である。

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柏尾の村の入り口の4ツ角、存徳寺の掲示板がある所の南北に伊勢街道が通っている。
牛馬頭観世音が祀られている桜井の集落の北側の入り口から入り、白鳥神社の前を進んでいくと、燈明と祠と道標がまとまって並んでいる場所に着く。その道筋が伊勢街道である。祠には神明神社が祀られている。
鷲巣の養老不動産(鷲巣1001-2)の近くに道標があるとのことだが、確認はできなかった。
上方362の東の道が伊勢街道である。道標は上方にはない。

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柏尾では平成に入る頃まで、養蚕が行われていた。桑畑が多くあり、貴重な現金収入であった。
農業は石畑、飯ノ木、勢至の水田まで牛で往来していた。柏尾地内の棚田は戦後あたりまで耕作を行っており、秣の滝や湧水を集め水を引いていた。
林業も盛んで昭和40年頃まで行われていた。山道も整備され、枝打ちや間伐など手入れもされており、木を切り出して家を建てていた。他にも柴刈りなど、1年のうち半年は山で仕事をしているのではないか。明徳の方からも柴刈りに来ていた。

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石畑では養蚕が盛んだったが、昭和40年頃にはごく一部の家に限られるようになった。その頃まで養蚕をやっていたA氏は養蚕に使う竹の道具などを石畑川で洗っていた。当時、石畑川は川幅が1mほどあり、毛鉤を使ってハエなどが釣れた。また、山に入り薪を担いで歩いている人を見かけた。B氏も、ドングリの木があったのでそれを切り倒して、シイタケを作った。お茶畑や柿、梅を育てている家は昭和40年頃から今でもあるが、他の果樹を育てている農家は見かけない。
行平谷の上あたりで良質の紫雲石が多く採集されたが、2010年現在は全く取れなくなった。

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五日市では土地に高低があり、ねずみなどに畦に穴をあけられると、下に水が落ちてしまって、水田には向かなかった。そのため、明治から昭和30年代にかけて養蚕が盛んだった。
昭和前半には、軍服にするために桑の木の皮を取りにいった。取った皮は加工されていたはずだが、加工場所は不明である。
田の裏作として麦、小麦、蓮華、菜種を作っており、蓮華の収穫時期と2番蚕を繭にする時期が重なり、大変だった。蓮華の収穫の後にはすぐに田仕事があった。
五日市の辺りは天領だったため、年貢が安く、そのせいか人々はあまり働かなかった。田んぼ仕事に行くにも、日が上がってからで、向かいの部落の人が一反ほどすませてしまった頃に五日市の人が出かけて行ったと言われる。

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