五日市では土地に高低があり、ねずみなどに畦に穴をあけられると、下に水が落ちてしまって、水田には向かなかった。そのため、明治から昭和30年代にかけて養蚕が盛んだった。
昭和前半には、軍服にするために桑の木の皮を取りにいった。取った皮は加工されていたはずだが、加工場所は不明である。
田の裏作として麦、小麦、蓮華、菜種を作っており、蓮華の収穫時期と2番蚕を繭にする時期が重なり、大変だった。蓮華の収穫の後にはすぐに田仕事があった。
五日市の辺りは天領だったため、年貢が安く、そのせいか人々はあまり働かなかった。田んぼ仕事に行くにも、日が上がってからで、向かいの部落の人が一反ほどすませてしまった頃に五日市の人が出かけて行ったと言われる。
表示位置は五日市青少年育成センターを示している。