唐谷(からたに)と菊水泉の落ち水を千歳楼の別館の側に落とし、その近くに神戸文左衛門(かんべぶんざえもん)が別荘を建て、街道から公園事務所の水道を一番最初に整備した。
大正年間に養老鉄道や鍛冶屋が引いていた水道や、火打谷(唐谷)から公園事務所への水道は2010年現在も養老公園の中組の住民が使用している。
唐谷は火打石が出るので有名な谷である。唐谷は古い絵図には、「随谷(ずいたに)」と記されている。清風楼から下流に向かって手前の橋が、「随谷橋」、更に下って滝谷と合流する地点にかかる橋が、「唐谷橋」である。ただし、「唐谷橋」は、現在残っている橋の欄干を見ても何も書いていないので、唐谷橋と言う人も、名前はないという人もいる。
唐谷は観光旅館清風楼(せいふうろう、岐阜県養老公園1285)の裏を東西にはしっている。普段は水は全然ないが、一旦雨が降ると、急斜面になっているためものすごい勢いで水が流れる。台風の時は、大きな石がゴロゴロ転がって、その音がとても大きく聞こえるので怖いぐらいである。昭和34年(1959)の伊勢湾台風の時には朝起きたら台風の濁流が清風楼の調理場からふろの方へと流れこんでいた。

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白石村には石工が何人かいた。ヨハネス・デレーケが設計したといわれる滝谷の堰堤も、白石村の石工が石積みを組んだといわれている。石工の石組頭は藤塚久治氏の先祖の藤塚臣右衛門(ふじつか しんえもん)氏が務めた。その中の最後の石工の藤田禊(ふじた みそぎ)氏が柏尾谷の赤岩神社の奥の院の前の堰堤を築いたと伝えられている。

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養老バーベキュー(養老1173-5)から柏尾谷へ向かう所にある砂防工事跡は、「養老町の古道p.52」によれば、薩摩義士によるものである。津屋川に土砂を流さないために、災害の時は津屋川と反対側に土砂を落とすようになっていた。

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京ヶ脇には谷水と井戸のおかげで水を確保できるため人が住みついたのではないかと考えている。町道水が完備されるまでは、谷水で生活していた。谷からの水路を作ったり、竹に水を通したりしていたが、後に鉄管等で水を引いた。養老町が合併した後に、谷の上の方を水源とする谷水をタンクでろ過する簡易水道が設置された。現在も稼働し散水等に使用され、京ヶ脇が管理している。
A氏宅(京ヶ脇1417)の敷地内に井戸があり、その井戸で村の人々が水を賄っていた。平成15年頃から井戸が枯れ始めたが、直江谷が枯れた事が原因である。
玉泉堂が地ビールに着手しようと京ヶ脇の地下水の水質検査を行ったところ、鉄分の含有率が高く地ビールには向かないことが分かった。
終戦後、水のない時に京ヶ脇で伝染病が流行り、簡易水道の設置案が持ち上がった。昭和25~26年頃に谷水のろ過装置が設置された。
直江谷の水は京ヶ脇の地下を通っているが、京ヶ脇の住民が生活用水として使える程の水量はない。
京ヶ脇の住民は滝谷から浸透してくる水を使用していたのではないだろうか。

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竜泉寺の水取り場の洞窟の奥がどこまで続いているのかを知りたくて入った者がいるが、途中に石が落ちており、最後までたどり着けなかった。
行平谷と威徳谷の暗渠の水は2010年現在も使用されている。年中水が枯れることはない。竜泉寺の宿坊へ水を引くために暗渠を作ったのではないかと考えている。

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