養老は水が良いことで知られており、中でも菊水泉は名水100選に選ばれている。明治23年(1890)に大垣で日比野鉱泉を創業した日比野寅吉(ひびのとらきち)氏は養老の名水を知り、明治33年(1900)に工場を養老に移した。菊水泉の水を利用して作った炭酸飲料の養老サイダーを売り出した。養老サイダーは戦争中は軍用サイダーとして全国に養老駅から貨車で出荷されていた。名前は「金鶏サイダー」と名付けられていた。現在でも菊水泉の水が目的で養老にみえる方もいる。名水100選に選ばれて人気が出た養老の菊水泉は、最近では名古屋駅でも養老山麓の水として売っている。
観光旅館清風楼(せいふうろう、岐阜県養老公園1285)の2012年現在の2代目の当主、A氏が子供の頃、昭和30年代は妙見堂へ上がる東側の道路には、冬になると雪が1mくらい積もった。A氏はスキーで下まで滑って行った記憶がある。たまに坂から下に落ちたが、雪があったので怪我もしなかった。
観光旅館清風楼(せいふうろう、岐阜県養老公園1285)は、昭和4年(1992)頃の春に創業した旅館である。
創業者であるA氏のお父様の出身は、愛知県である。最初は岐阜に来て岐阜駅から長良を結ぶ路線のバス会社を経営していた。
清風楼という名前は創業者が茶道の言葉から名付けた。
旅館の食事は、先代はすき焼きを出していた。A氏が子どもの頃の昭和40年代はすき焼きといえば牛肉だったが、お母様が馬肉の話をしていた記憶があるので、A氏が生まれる前は馬肉を使っていたのかもしれない。
養老町の日吉や室原辺りに行くとすき焼きのことを「ひきずり」と言い、肉は馬肉であった。昭和の始め頃は馬肉の方が入手しやすかったのかもしれない。昭和40年代は鶏肉しか手に入らないという理由から、すき焼きと言えば鶏肉を入れていた所も養老町内にあったと聞いたことがある。
昭和30年代は鯉や鯰などの川魚料理もよく出していた。海津市のお千代保稲荷の老舗の店ででてくるような鯰をA氏が子どもの頃には家でも食べていたのを覚えている。昭和40年頃もまだ川魚を出していて、お客様は十分満足していた様であった。お客様は養老の地元の方が多かった。魚は魚屋から運んでもらって、養老の水にしばらく入れておくと臭みがとれた。旅館千歳楼(せんざいろう、岐阜県養老1079)さんでも川魚料理をだしていた。清風楼に比べると千歳楼さんは後々まで川魚をよく使っていた。千歳楼さんのお客様には、かなり上流社会の人がいた。
豆馬亭(とうまてい、岐阜県養老公園1282)さんが猪鍋料理をだし始めた頃、同様に清風楼も猪鍋料理を出し始めた。それから20年ぐらい出していたがやがて止めてしまった。
養老の水は大変良いと言われている。清風楼は昔から白石地区とお付き合いがあるので、菊水泉の水を引かせてもらっている。一時期、ゆせんの里(岐阜県養老町押越1374-50)の温泉の水を運んでいたが、現在は菊水泉の水でお風呂を沸かしている。