笠郷地区は西濃の中でも文教地区であった。
学校の応援歌は作者不明であるが、校歌は先生が作ったのではないかと思う。昭和13(1938)年まで各学校で作られた歌が歌われた。翌年からは国民総動員法が出来た為、愛国行進曲(「見よ東海の空あけて」)に切り替わり、各学校で作られた校歌・応援歌は歌われなくなった。
学校では教育勅語を読んだ。教育勅語の奉読は、節回しが祝詞に似ている。
教育勅語の読み方は、統一されていた。また、教頭先生の教育勅語の持ち方、校長先生の教育勅語の取り出し方など、一切が決められていた。もし読み間違いをしたら、進退問題になったという記録がある。
昔は「学を修め業を習い」といったものだが、今の子どもは、「業(仕事)」を習わずに「学」だけ習っている。終戦当時は、校則違反など悪いことをすると、教育勅語を謹書させられた。その当時、教育勅語がいかに大事だったか、大垣市の興文(こうぶん)小学校の百年誌に載っている。空襲の際に、職員が御真影(ごしんえい)を背負い、避難したと百年誌に書いてある。
昭和初期の笠郷小学校校訓は、「真面目であれ、やり遂げよ」であった。A3位の大きさで金縁の校訓を髙木寛一校長が作成し、各家庭へ配った。A氏の自宅の座敷にもあった。
昭和9、10(1934、1935)年頃、笠郷小学校の先生が笠郷読本を作った。笠郷読本は終戦の時に処分した。
笠郷読本にA氏のお父様が書いた文が載っていた。明治29(1896)年の水害時、自宅に水がついて、火鉢が船の舳先にあたって割れたため、鉄の輪をはめた火鉢があったという内容であった。
池辺と今尾の交流は、渡船が主であった江戸後半~昭和の初め頃はあまり盛んではなかった。昭和8、9年頃に揖斐川に今尾橋が開通してから今尾は、池辺の住民にとって、図書館へ行ったり、買い物をしたり、今尾中学校に通うなど、生活の中心になった。
今尾橋から、東側の子は今尾中学校、西側の子は主に東部中学校へ通った。大場の子は今尾橋の西側だが、笠郷中学校へ通う子も今尾中学校へ通う子もいた。
駒野新田の子は、1980年頃に東部中学校が建設されてからはほとんど東部中学校へ行った。東部中学校は笠郷中学校、池辺中学校、上多度中学校を統合してできた学校で、2012年現在でもう30年くらい経つ。
駒野新田と小坪は同じ養老町内で隣り合う地域だが、小坪の子は池辺小学校、駒野新田の子は現海津市の城山小学校へ通った。
城山小学校は、4年生までは分校があったが、5年生からは皆本校である城山小学校へ行った。
城山小学校ができる前は駒野に文教場があり、小坪から通った子もいた。昭和の初め頃である。
駒野新田は、行政上は養老町でありながらあまり養老町と関わりがなく、生活圏は現海津市の駒野であった。駒野は町村合併の際に南濃町となり、その後海津市となった。
小坪の人も生活圏は駒野であった。
正式名称は「若連中」だが、単に「若い衆」 ともいった。高等小学校卒業後(17歳)~結婚するまでの独身男性の集まりで、祭典行事を行った。若い衆に入れば、村役では一人前になれた。当時は、23、4歳で結婚する人が多く、遅くとも25歳までには結婚した。
昔の養老公園の地図によると偕楽社は千歳楼(せんざいろう、養老1079)からかなり離れ、養老鉄道の貸地と書いてある場所に描かれている。ただし「偕」楽社ではなく、「階」楽社となっており、誤植なのか何らかの意味があるのかは不明である。
A氏の記憶では、偕楽社は養老公園古地図にある場所ではなく、千歳楼さんの敷地の中にあった。
養老亭さんは現在の大黒屋さんの東側、ます池の側に建っていたように思う。養老亭の看板が出ていたのも覚えている。
古地図に藤塚と書いてある場所ではA氏のご親類が場所を借りて千歳楼さんの板前をしていた。その辺りに置屋が2軒ほどあった。村上旅館も置屋を持っていた。
梅林亭の辺りの駐車場は昔、梅林公園だった。1940年代は、面積が広く綺麗で、それを目当てに訪れる人もいた。