池辺と今尾の交流は、渡船が主であった江戸後半~昭和の初め頃はあまり盛んではなかった。昭和8、9年頃に揖斐川に今尾橋が開通してから今尾は、池辺の住民にとって、図書館へ行ったり、買い物をしたり、今尾中学校に通うなど、生活の中心になった。
今尾橋から、東側の子は今尾中学校、西側の子は主に東部中学校へ通った。大場の子は今尾橋の西側だが、笠郷中学校へ通う子も今尾中学校へ通う子もいた。
駒野新田の子は、1980年頃に東部中学校が建設されてからはほとんど東部中学校へ行った。東部中学校は笠郷中学校、池辺中学校、上多度中学校を統合してできた学校で、2012年現在でもう30年くらい経つ。
駒野新田と小坪は同じ養老町内で隣り合う地域だが、小坪の子は池辺小学校、駒野新田の子は現海津市の城山小学校へ通った。
城山小学校は、4年生までは分校があったが、5年生からは皆本校である城山小学校へ行った。
城山小学校ができる前は駒野に文教場があり、小坪から通った子もいた。昭和の初め頃である。
駒野新田は、行政上は養老町でありながらあまり養老町と関わりがなく、生活圏は現海津市の駒野であった。駒野は町村合併の際に南濃町となり、その後海津市となった。
小坪の人も生活圏は駒野であった。
正式名称は「若連中」だが、単に「若い衆」 ともいった。高等小学校卒業後(17歳)~結婚するまでの独身男性の集まりで、祭典行事を行った。若い衆に入れば、村役では一人前になれた。当時は、23、4歳で結婚する人が多く、遅くとも25歳までには結婚した。
昔の養老公園の地図によると偕楽社は千歳楼(せんざいろう、養老1079)からかなり離れ、養老鉄道の貸地と書いてある場所に描かれている。ただし「偕」楽社ではなく、「階」楽社となっており、誤植なのか何らかの意味があるのかは不明である。
A氏の記憶では、偕楽社は養老公園古地図にある場所ではなく、千歳楼さんの敷地の中にあった。
養老亭さんは現在の大黒屋さんの東側、ます池の側に建っていたように思う。養老亭の看板が出ていたのも覚えている。
古地図に藤塚と書いてある場所ではA氏のご親類が場所を借りて千歳楼さんの板前をしていた。その辺りに置屋が2軒ほどあった。村上旅館も置屋を持っていた。
梅林亭の辺りの駐車場は昔、梅林公園だった。1940年代は、面積が広く綺麗で、それを目当てに訪れる人もいた。
養老は水が良いことで知られており、中でも菊水泉は名水100選に選ばれている。明治23年(1890)に大垣で日比野鉱泉を創業した日比野寅吉(ひびのとらきち)氏は養老の名水を知り、明治33年(1900)に工場を養老に移した。菊水泉の水を利用して作った炭酸飲料の養老サイダーを売り出した。養老サイダーは戦争中は軍用サイダーとして全国に養老駅から貨車で出荷されていた。名前は「金鶏サイダー」と名付けられていた。現在でも菊水泉の水が目的で養老にみえる方もいる。名水100選に選ばれて人気が出た養老の菊水泉は、最近では名古屋駅でも養老山麓の水として売っている。