笠郷小学校は大正8(1919)年に新校舎ができた。それまでは、笠郷には下笠、栗笠、船附、大野と四つの小学校があった。
栗笠の昔の写真が文部科学省にあり、そのコピーが笠郷小学校にあると聞いている。
笠郷小学校は校舎の西に校長先生用の住宅があり、先生の下宿部屋もあった。昭和初期、一之瀬の(大垣市上石津町)高木寛一校長の時に、親に連れられて先生の下宿部屋に遊びに行ったことがある。
笠郷小学校の校長先生がお茶の木を校舎横に植え、「お前たちのお茶の葉にする」と言われた。
笠郷小学校の高木寛一校長は立派な人であった。大垣市の興文(こうぶん)小学校の校長や県視学(岐阜県学校視察委員)も務めた。
笠郷小学校の建物は、平屋だったので集中豪雨や伊勢湾台風の時に水がついてしまってほとんど資料が残っていない。笠郷小学校で場所が高かったのは、体育館のステージで、ピアノがあったのを覚えている。
笠郷小学校校歌の中で、「千町田(ちまちだ)実る 我里の笠郷のその名を示しつつ・・・」というフレーズを覚えている。大正8(1919)年から昭和13(1938)年まで、登校の際に学校近くの橋を渡った時点で職員室に聞こえるように歌った。当時の登校班の班長は、少年赤十字に入っていた。笠郷では少年赤十字団のバッチを作ったことがある。
笠郷公民館は、昔は木造の二階建てだった。
笠郷では毎年8月16日に盆踊りが地域の活性化と絆を深める行事として行われており、婦人会が笠郷公民館の二階で盆踊りの練習をしていた。婦人会は、愛国婦人会の後身である。
笠郷尋常小学校の春季運動会では、1930年代半ば頃までは「国旗はコートに翻れ」などと、応援歌に洒落た言葉を使っていた。やがて1937年に閣議決定された国民精神総動員の方針に則って作詞作曲された愛国行進曲に統一された。以前は敬老会でも「国旗はコートに翻れ」を皆で一緒に歌っていたが、平成24年現在で82歳以上の、その歌を知っている人たちが参加しなくなり、歌えなくなってしまった。
アメリカの占領政策で、教育に関しては、教育勅語の廃止、個性尊重、公よりも私、個人の尊厳、個人の自由など、戦前と大きく変わった。最初にGHQから、教壇をはずして生徒と同じ高さに立つように言われた。
バージニア、カリフォルニアから教えられたアメリカの政策は、分団学習と言って、学習の主体は子どもであり、教師は指導するのではなく、相談役になることであった為、子どもに討論をさせた。
笠郷地区は西濃の中でも文教地区であった。
学校の応援歌は作者不明であるが、校歌は先生が作ったのではないかと思う。昭和13(1938)年まで各学校で作られた歌が歌われた。翌年からは国民総動員法が出来た為、愛国行進曲(「見よ東海の空あけて」)に切り替わり、各学校で作られた校歌・応援歌は歌われなくなった。
学校では教育勅語を読んだ。教育勅語の奉読は、節回しが祝詞に似ている。
教育勅語の読み方は、統一されていた。また、教頭先生の教育勅語の持ち方、校長先生の教育勅語の取り出し方など、一切が決められていた。もし読み間違いをしたら、進退問題になったという記録がある。
昔は「学を修め業を習い」といったものだが、今の子どもは、「業(仕事)」を習わずに「学」だけ習っている。終戦当時は、校則違反など悪いことをすると、教育勅語を謹書させられた。その当時、教育勅語がいかに大事だったか、大垣市の興文(こうぶん)小学校の百年誌に載っている。空襲の際に、職員が御真影(ごしんえい)を背負い、避難したと百年誌に書いてある。
昭和初期の笠郷小学校校訓は、「真面目であれ、やり遂げよ」であった。A3位の大きさで金縁の校訓を髙木寛一校長が作成し、各家庭へ配った。A氏の自宅の座敷にもあった。
昭和9、10(1934、1935)年頃、笠郷小学校の先生が笠郷読本を作った。笠郷読本は終戦の時に処分した。
笠郷読本にA氏のお父様が書いた文が載っていた。明治29(1896)年の水害時、自宅に水がついて、火鉢が船の舳先にあたって割れたため、鉄の輪をはめた火鉢があったという内容であった。