昭和20年代、笠郷の学校では一学級に53人いた。
大正時代から昭和20年(1912~1945)頃までは、親に進学したいと頼んでも、同級生の中には家の手伝いがあり、進学させてもらえなかった者もいた。卒業しても5、6年生の国語の本が読めない者もいた。
家の電気は1つか2つしかなく、時間内しかつかなかった。上之郷に電球の交換所があった。机、勉強部屋があるのは特殊で、みかん箱などを机にして、比較的明るい縁側で勉強をした。
昔の学生は鉛筆を、短くなるまで大切に使っていた。筆箱に2本入っていれば良い方であった。消しゴムは貴重品であった。習字は白い半紙は使えず、新聞紙を使った。
笠郷小学校は大正8(1919)年に新校舎ができた。それまでは、笠郷には下笠、栗笠、船附、大野と四つの小学校があった。
栗笠の昔の写真が文部科学省にあり、そのコピーが笠郷小学校にあると聞いている。
笠郷小学校は校舎の西に校長先生用の住宅があり、先生の下宿部屋もあった。昭和初期、一之瀬の(大垣市上石津町)高木寛一校長の時に、親に連れられて先生の下宿部屋に遊びに行ったことがある。
笠郷小学校の校長先生がお茶の木を校舎横に植え、「お前たちのお茶の葉にする」と言われた。
笠郷小学校の高木寛一校長は立派な人であった。大垣市の興文(こうぶん)小学校の校長や県視学(岐阜県学校視察委員)も務めた。
笠郷小学校の建物は、平屋だったので集中豪雨や伊勢湾台風の時に水がついてしまってほとんど資料が残っていない。笠郷小学校で場所が高かったのは、体育館のステージで、ピアノがあったのを覚えている。
笠郷小学校校歌の中で、「千町田(ちまちだ)実る 我里の笠郷のその名を示しつつ・・・」というフレーズを覚えている。大正8(1919)年から昭和13(1938)年まで、登校の際に学校近くの橋を渡った時点で職員室に聞こえるように歌った。当時の登校班の班長は、少年赤十字に入っていた。笠郷では少年赤十字団のバッチを作ったことがある。
笠郷公民館は、昔は木造の二階建てだった。
笠郷では毎年8月16日に盆踊りが地域の活性化と絆を深める行事として行われており、婦人会が笠郷公民館の二階で盆踊りの練習をしていた。婦人会は、愛国婦人会の後身である。
笠郷尋常小学校の春季運動会では、1930年代半ば頃までは「国旗はコートに翻れ」などと、応援歌に洒落た言葉を使っていた。やがて1937年に閣議決定された国民精神総動員の方針に則って作詞作曲された愛国行進曲に統一された。以前は敬老会でも「国旗はコートに翻れ」を皆で一緒に歌っていたが、平成24年現在で82歳以上の、その歌を知っている人たちが参加しなくなり、歌えなくなってしまった。