鷲巣(わしのす)の北に関していえば明徳との付き合いはあまりないが、鷲巣の南の方は分からない。A氏の知っている範囲では、明徳から嫁いできた人が一人いるだけで、鷲巣から明徳へ嫁いでいった人や明徳の寺の門徒であるという人もいない。
昭和10年代、焚物は藁を燃やしていた。または芝を刈って、燃料にしていた。芝を刈るために土地を借りていたり、山がある人は、自分の山で芝を刈った。
A氏が持っている鬼面山谷五郎の資料では、文久元年(1861)、鬼面山が関脇の頃に帰って来ている。その時、鷲巣(わしのす)の住民は水害で困窮していたため、鬼面山が十両を配った、ということを記帳した古文書がある。それ以上前のことは分からない。3~6世代前の話である。
鷲巣出身の鬼面山は、勝負するのに仕掛けていかないのは、相撲ではないと言っているが、基本的に鷲巣の人の気質は、何事も前向きに取り組むが、人と対立するようなことはしない。人が良い人が多いのではないだろうか。輪中で暮らす人の輪中根性のようなものは、この集落にはないと思う。
今も鷲巣に残っている古い建物はない。くずや(藁屋根)や、トタンを被せた家もない。B氏の家も昭和35(1960)年頃まではくずやだった。
小野佐太郎氏(文久3(1863)年生まれ、町史に記載あり)は下笠立身小学校の教員で、笠郷村収入役も務めていた。小野佐太郎氏が退職した大正6(1917)年に、村長の谷金吾氏からもらった退職時の感謝状らしき額がある。なお、谷金吾氏は船附村の庄屋であった。下笠には名士が多かったが、喧嘩にならないように笠郷の村長は他所から選出された。
小野佐太郎氏は数え78歳で亡くなった。
小野佐太郎氏の小さい頃は、小野氏の家の前の堤防を籠が通ったそうである。
下笠には、滋賀県との交流があり、小野家の祖先も滋賀県から来ているとのことであった。当時油商をしており、家宝には油商のしるしばんてんがあるという。
近江から伊勢代参に行く時は、水路はなかったので九里半街道から下笠を抜けて津島街道へ出て、大場の渡しを通って根古地から船で伊勢へ向かったのであろう。
小野佐太郎氏は独学で熱心に勉強しており、晩年も座敷で写経をしていた。
和田では虫送りは行っていなかった。
和田では誘蛾灯があった。油を使って灯をつけ、害虫を集めた。小学校に入ると6年生くらいまで稲の害虫取りをした。苗場ができると、学校の午後の授業が終わってから、班長に連れられて虫取りに行った。稲の葉先の虫をとり、瓶の中に入れて、いくつ取ったかを上級生が調べて、学校から鉛筆、雑記帳などの褒美をもらった。農業信用組合(農協の前身)が企画していたのではないだろうか。害虫の種類によって点数が異なり、青虫は点数が低く、卵は高かったので、卵ばかり探した。