西岩道(にしいわみち)の水路は用排水兼用であるが、用水路から入ってくる水の量が少ない。
西岩道地内にも金草川(かなくさがわ)からの取水口があるが、A氏は金草川上流側の口ヶ島(くちがしま)が金草川の水利権を持っており、水を完全に止められるのに対して、下流側の西岩道は金草川の水利権を持っておらず、こぼれ水があるだけであると考えている。
西岩道の人は、現在も口ヶ島から用水を貰うのが当然である、という考えを持っており、対して口ヶ島の人は、西岩道が口ヶ島の水路掃除という義務さえ果たしてくれれば西岩道に水をあげる、という考えを持っている。
唯一の水の入手手段である口ヶ島から西岩道に続く水路を止めてしまうと水は流れて来ない為、水不足の時は西岩道の人は水の入手に困る。実際に今までで3回だけ、西岩道の人から助けて貰えないかと内々に相談されたことがある。公式には口ヶ島から西岩道に水を渡すことはできないので、内々に水を一日流した。その際は、金草川からではなく、口ヶ島用水で口ヶ島地内に取り入れた水を西岩道に流した。
西岩道を除く広幡地区は、昭和34(1959)年の伊勢湾台風後に土地改良を行った。広幡地区全体としての土地改良が出来なかったのは、西農免幹線道路(にしのうめんかんせんどうろ)を東へ50メートル行った所で、西岩道の地権者の方々の同意を得られなかったためである。西岩道の人は、地元の事情もあって、口ヶ島からの水は一切当てにせずに自分達で用水を確保して独自で土地改良を行うという方針であった。
西岩道は独自で用水を得る為に、今の広幡橋の南側に自力で井戸を掘った。現在、そこに井戸があることは一部の人しか知らない。
苦労して設置した井戸であったが、ポンプで汲み上げを行う為電気代が嵩むことで維持が困難となり、昭和40年代に一時使用を停止した。現在は役場で申請を行い、ポンプの電気代は町に負担してもらっている。
井戸を掘ると排水が出るので、排水路の掃除が必要になる。排水路の、集落と集落をつなぐ幹線水路は村全体で掃除をするが、幹線水路から個人の水田に水を引く支線水路は個人で掃除をする必要がある。

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江浚え(えざらえ)とは、水路掃除のことである。口ヶ島(くちがしま)の水路は用排水兼用であり、金草川(かなくさがわ)から水を引いている。
口ヶ島では、年に2回(4月第1日曜日、8月第3日曜日)村全体で江浚えを行っている。4月は、田植えを行う前に用水路から水を入れる為に江浚えを行う。8月は、水路の中に藻が生えて排水路が詰まるようになるため、排水路の水はけを良くする目的で収穫前に江浚えを行う。
大跡(おおあと)の悪水は、旧十三ヵ村排水路を約7km通って津屋川に落とされる。水路をきれいに保つことは大跡にとって重要なことであり、用水の維持管理は徹底している。
秋の稲の収穫は、昔は人力で行っていた為、田んぼを乾かさないといけなかった。現在は品種改良と栽培方法の改良が進み、田んぼが乾いていなくても機械で収穫できるようになった。田んぼを乾燥させる必要が無くなった為、今の60代位の人は水路が詰まっていても、江浚えを行うことに関心が薄い。

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大正~昭和期に中国のエリート中のエリートが数多く国費留学で来日した。郁達夫(いく たっぷ)氏(1896年-1945年)は兄と共に来日した留学生の内の一人であった。郁達夫氏は旧制第八高等学校(八高、現在の名古屋大学)に、兄の郁曼陀(いく まんだ)氏は現在の岡山大学医学部に入学した。
若くして日本へ留学した郁達夫氏は、日本で漢学、漢詩を学ぶ為に愛知県弥富町の服部担風(はっとり たんぷう)氏を訪ねた。その頃、担風先生は新聞に記事を書いていたそうである。担風先生のもとには、同年代の冨長蝶如(とみなが ちょうにょ)氏もおり、交流が始まるきっかけとなった。その出会いについては、蝶如氏の書籍にも書かれている。
郁達夫氏は、八高を卒業した後に、東京帝国大学(現在の東京大学)経済学部に入学した。
蝶如氏も1910年代当時、漢詩関係の雑誌の編集を頼まれて東京で生活をしていた。お互い近くに下宿しており、親交を深めるとともに、励ましあいながら大変な生活を送っていた。東京湾、上野公園、カフェなどへ行ったり、2人ともうどんが好きで良く食べに行ったりしていた。
特に唐詩の話ではお互いに詩を詠み、その感想を述べ合って、詩論を行った。
郁達夫氏は東京大学へ入ってもすぐに友達ができる訳ではないので、師匠の担風先生の所で付き合いがあった蝶如氏を頼りながら生活していたのではないだろうか。蝶如氏も雑誌社へ勤めながらも、郁達夫と一番気が合っていたのではないだろうかと思う。郁達夫氏は、頭がとても良かったそうである。2人とも苦労が多かったのではないだろうか。蝶如氏は請われて出版社へ行ったが貧乏をしていたそうである。蝶如氏は、根室の出版社へも呼ばれて、一年くらい行っていた。
郁達夫氏が中国に帰国した後に日中戦争が始まった。彼は日本語に堪能であったので、日本軍の通訳にされていた。その後、スマトラに行き日本軍との交流の中で諜報活動をしていた可能性がある。終戦直後の混乱期に、日本軍の悪事を知っていた為か、日本軍の兵隊に殺された、という説がある。
郁達夫氏は、晩年、日本人に対して随分不快感を持っていたようである。しかし、蝶如氏の話では、交際している時はそのようなことを一言も言わず、温厚で優秀な青年であった。
郁達夫文学碑は、平成10(1998)年、第八高等学校創立90周年の時、名古屋大学の豊田講堂の東側に「第八高等学校創立90周年、記念祭実行委員会」により建てられた。冨長覚梁氏は、父の蝶如(ちょうにょ)氏が郁達夫氏の親友だったことから、竣工式に招待された。その際、郁達夫氏の孫・郁峻峰(いく しゅんぽう)氏と出会い、通訳を交えて話をしたが、覚梁氏が冨永蝶如氏の息子と知って、一番会いたかった、と言われた。孫の郁峻峰氏は郁達夫氏と良く似ていて、竣工式でも挨拶の時に、郁達夫氏の顔を知っている人は似ていると言っていた。
郁峻峰氏は中国にある郁達夫記念館近くの大学の副学長を務めている。
文学碑には、郁達夫氏の作品の中でも一番有名な小説名から、「沈淪(ちんりん)」と刻まれている。また、竣工式の式次第には、郁達夫氏の残した作品の代表的なものや評価が書いてあった。
郁達夫の研究者、稲葉昭二(いなば しょうじ)氏は京都の東山在住で、金沢大学・龍谷大学の元教授である。現在は85、6歳位である。その著書『郁達夫 – その青春と詩 -』(1982 東方書店)を出版するにあたり、冨長蝶如氏・覚梁氏に郁達夫氏の事を色々と教えてくれた。
『郁達夫 – その青春と詩 -』の中には、郁達夫氏だけでなく、郁曼陀氏の話題も書いてある。また「郁達夫の思い出」という章が入っているが、蝶如氏著の『服部担風先生雑記』からの掲載である。
小田岳夫(おだ たけお)氏など、他にも何人か郁達夫氏の研究家がいる。
中国で出版された郁達夫文集(1984 生活・読書・新知三聯書店)全12巻がある。文集には服部担風先生の所に行った時のこと、蝶如氏と東京で別れた時のこと、担風先生への思いなどが記されている。養老へも来ており、養老山中作の作品がある。その中に、「冨長蝶如によす」という漢詩を数多く作っている。孫の郁峻峰氏が名古屋に来た時に、郁達夫氏は蝶如氏への思いが深く、作品を書いていたと仰られていた。

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服部承風(はっとり しょうふう)氏は、漢学の第一人者・服部担風(はっとり たんぷう)氏の孫で、本名を服部靖という。全日本漢詩連盟副会長、朝日カルチャーセンター講師を務められた。
承風氏は中学生の頃に、日曜日に冨長蝶如(ちょうにょ)氏の講義を聞きに来ていた。漢学の勉強をするのに、祖父では甘えてしまうので他所に行け、と言われて、蝶如氏の所へ来ることになったそうである。弥富駅から美濃高田駅までは近鉄名古屋線と養老線(今の養老鉄道)を使い、美濃高田駅から長願寺までは袴姿で徒歩で来ていた。最初は覚梁氏も一緒に座って蝶如氏の講義を聴いていたが、この人には及ばないと思うほど立派な方であった。

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服部担風(はっとり たんぷう)先生は、生年慶応3(1867)年、没年昭和39(1964)年である。幼名を粂之丞(くめのじょう)といった。
冨長蝶如(とみなが ちょうにょ)氏の師であり、当時の日本における漢学の第一人者であった。愛知県弥富村で私塾を開き、漢学を教えていた。他に、桑名、名古屋でも教えており、全国からたくさんの人が教えを乞いに来ていた。
弥富、桑名、名古屋で漢詩塾を開いたため、東海地方では、他県にくらべても服部担風先生の教えが根付いていった。
昭和28(1953)年、担風の唯一の漢詩集が日本芸術院賞を受賞した。
昭和34(1959)年、伊勢湾台風の時には、自宅の天井まで水が来て、貴重な書物が全部水に浸かってしまった。
昭和39(1964)年、96歳で亡くなった。弥富市の専念寺の墓に葬られている。
蝶如氏は、担風先生没後から自身が亡くなる直前までの約30年間、担風先生の月命日には、毎月欠かさず養老線に乗って、墓参していた。
担風先生自身は思っていなかったが、門人達は、担風先生の稀に見る漢学に対する造詣の深さから、是非担風先生に文化勲章を、という気持ちがあった。しかし当時の日本は科学に目が向いていたので、漢学で文化勲章を貰えない風潮があった。
愛知県弥富市には、服部御三家の立派な古い家が今も残っている。また、町内には、台風で壊れてしまった担風先生の家を一部復元した書斎などが残っている。弥富市歴史民俗資料館には、服部担風先生のコーナーがある。
担風先生には養老へ2回ほど来て貰った、と蝶如が『服部担風先生雑記』の中で書き遺している。
担風先生の所へは、覚梁氏も蝶如氏について2、3回行ったことがある。
蝶如氏の書籍では、担風先生は相撲が好きだったなどと書かれており、担風先生の気さくな人柄が分かる。
覚梁(かくりょう)氏が、高校教師をしていた頃に文芸部を作り、文芸雑誌を出す際、担風先生の話を載せる為に、4、5人の生徒を連れて弥富へ行った時もニコニコして優しい言葉で色々と話してくださった。
担風先生は、新愛知新聞(中日新聞の前身)で漢詩の撰者をしていた。郁達夫(いく たっぷ)氏は漢詩の投稿を行ったことで担風先生と知り合った。
担風先生を初めて訪ねた郁達夫氏が帰る時、馬車に乗っている氏を、担風先生が歩いて駅までずっと付いて来たことが蝶如氏著の『服部担風先生雑記』に載っている。担風先生は、普通では考えられないくらい素朴で実直な方であった。
郁達夫氏からしても、自身の父親が早くに亡くなっており、担風先生が父のような存在で、特別な気持ちがあったのではないだろうか。
『服部担風先生雑記』でも桑名の愛宕旅館で、よく担風先生の藍川吟社という漢詩の会があったと記されている。漢詩では、長良川は藍川と表現した。担風先生は藍色が好きだったこともあり、会にこの名前がついた。

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