大正~昭和期に中国のエリート中のエリートが数多く国費留学で来日した。郁達夫(いく たっぷ)氏(1896年-1945年)は兄と共に来日した留学生の内の一人であった。郁達夫氏は旧制第八高等学校(八高、現在の名古屋大学)に、兄の郁曼陀(いく まんだ)氏は現在の岡山大学医学部に入学した。
若くして日本へ留学した郁達夫氏は、日本で漢学、漢詩を学ぶ為に愛知県弥富町の服部担風(はっとり たんぷう)氏を訪ねた。その頃、担風先生は新聞に記事を書いていたそうである。担風先生のもとには、同年代の冨長蝶如(とみなが ちょうにょ)氏もおり、交流が始まるきっかけとなった。その出会いについては、蝶如氏の書籍にも書かれている。
郁達夫氏は、八高を卒業した後に、東京帝国大学(現在の東京大学)経済学部に入学した。
蝶如氏も1910年代当時、漢詩関係の雑誌の編集を頼まれて東京で生活をしていた。お互い近くに下宿しており、親交を深めるとともに、励ましあいながら大変な生活を送っていた。東京湾、上野公園、カフェなどへ行ったり、2人ともうどんが好きで良く食べに行ったりしていた。
特に唐詩の話ではお互いに詩を詠み、その感想を述べ合って、詩論を行った。
郁達夫氏は東京大学へ入ってもすぐに友達ができる訳ではないので、師匠の担風先生の所で付き合いがあった蝶如氏を頼りながら生活していたのではないだろうか。蝶如氏も雑誌社へ勤めながらも、郁達夫と一番気が合っていたのではないだろうかと思う。郁達夫氏は、頭がとても良かったそうである。2人とも苦労が多かったのではないだろうか。蝶如氏は請われて出版社へ行ったが貧乏をしていたそうである。蝶如氏は、根室の出版社へも呼ばれて、一年くらい行っていた。
郁達夫氏が中国に帰国した後に日中戦争が始まった。彼は日本語に堪能であったので、日本軍の通訳にされていた。その後、スマトラに行き日本軍との交流の中で諜報活動をしていた可能性がある。終戦直後の混乱期に、日本軍の悪事を知っていた為か、日本軍の兵隊に殺された、という説がある。
郁達夫氏は、晩年、日本人に対して随分不快感を持っていたようである。しかし、蝶如氏の話では、交際している時はそのようなことを一言も言わず、温厚で優秀な青年であった。
郁達夫文学碑は、平成10(1998)年、第八高等学校創立90周年の時、名古屋大学の豊田講堂の東側に「第八高等学校創立90周年、記念祭実行委員会」により建てられた。冨長覚梁氏は、父の蝶如(ちょうにょ)氏が郁達夫氏の親友だったことから、竣工式に招待された。その際、郁達夫氏の孫・郁峻峰(いく しゅんぽう)氏と出会い、通訳を交えて話をしたが、覚梁氏が冨永蝶如氏の息子と知って、一番会いたかった、と言われた。孫の郁峻峰氏は郁達夫氏と良く似ていて、竣工式でも挨拶の時に、郁達夫氏の顔を知っている人は似ていると言っていた。
郁峻峰氏は中国にある郁達夫記念館近くの大学の副学長を務めている。
文学碑には、郁達夫氏の作品の中でも一番有名な小説名から、「沈淪(ちんりん)」と刻まれている。また、竣工式の式次第には、郁達夫氏の残した作品の代表的なものや評価が書いてあった。
郁達夫の研究者、稲葉昭二(いなば しょうじ)氏は京都の東山在住で、金沢大学・龍谷大学の元教授である。現在は85、6歳位である。その著書『郁達夫 – その青春と詩 -』(1982 東方書店)を出版するにあたり、冨長蝶如氏・覚梁氏に郁達夫氏の事を色々と教えてくれた。
『郁達夫 – その青春と詩 -』の中には、郁達夫氏だけでなく、郁曼陀氏の話題も書いてある。また「郁達夫の思い出」という章が入っているが、蝶如氏著の『服部担風先生雑記』からの掲載である。
小田岳夫(おだ たけお)氏など、他にも何人か郁達夫氏の研究家がいる。
中国で出版された郁達夫文集(1984 生活・読書・新知三聯書店)全12巻がある。文集には服部担風先生の所に行った時のこと、蝶如氏と東京で別れた時のこと、担風先生への思いなどが記されている。養老へも来ており、養老山中作の作品がある。その中に、「冨長蝶如によす」という漢詩を数多く作っている。孫の郁峻峰氏が名古屋に来た時に、郁達夫氏は蝶如氏への思いが深く、作品を書いていたと仰られていた。

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郁達夫氏は明治29(1896)年に中国浙江省北郊の富陽という町で生まれた。生家は代々学者の家柄であった。日本には1913年、18歳の時に来た。 郁達夫氏が服部担風先生に選評を依頼した作品は56首に及んだ。碑面には「沈淪」という文字と郁達夫のレリーフ、碑陰には、八高の徽章と碑の由来文が刻まれている。表示位置は長願寺を示している。