口ヶ島に住むA氏によれば、戦時中の小学校の教育は、中学校へ進学する子が優先であったので、差別のようなものを感じていた。
厳しい教育で、雪が降った時に広幡(ひろはた)尋常高等小学校から養老公園の、かつて競馬場があった場所(字八千代あたり)まで裸足で走らされたこともあった。
校内に屈んで入れる程度の防空壕を掘った記憶もある。また、食糧難だったことから、運動場を耕して、麦やさつまいもを栽培していた。さらに高林(たかばやし)の、現在は岐阜県こどもの国(高林1298-2)になっている辺りまで畑を耕しに行ったこともあった。
高林は養老地区白石村(しらいしむら)の所有である。以前は松茸山であったが、白石村が燃料を取るために赤松を伐採し、その後、土地を開墾した。広幡地区が白石村から土地を借りて畑にしていたので、広幡の子どもが耕しに行っていたのであろう。
広幡尋常高等小学校の高学年になると、現在の広幡公民館の忠魂碑の西側で藁の人形に向かって、竹槍の練習をした。
教師に従わないと、殴られたり、平手打ちされたりするような体罰は当たり前であった。
小学校には、火鉢などの暖房は無かった。給食も無く、家から野菜を持って行ったり、児童の家族が当番で小学校で炊事を行い、味噌汁が配られたこともある。
各自が弁当を持って行き、下からコンロで温めて食べた。
A氏が学生であった、昭和10年代には修学旅行は無かったが、それまでは伊勢に一泊で行っていた。
広幡尋常高等小学校の奉安殿は、現在の広幡公民館の敷地のもみじの木の南西、JAにしみの広幡支店の玄関辺りにあった。国家の祝祭日の式典を行う際は、式を行うために小学校二階の三教室を開放して、その奥の祭壇に奉安殿からお持ちした天皇陛下の写真を祀っていた。奉安殿の写真は撮ってはいけないことになっていたのであまり残っていないと思う。
口ヶ島(くちがしま)地内を流れる金草川(かなくさがわ)にはファブリダムという堰が設けられている。このダムは発動機でゴムを膨らませて水をせきとめたり、萎ませて水を流す仕組みで、岐阜県が採用した。
金草川の上流には押越、下高田といった地区があり、用水が必要な時期は調整をしあって金草川からそれぞれの農地に水を入れる。押越では逆水樋門の上流側にある樋門を操作して金草川から用水を確保する。口ヶ島では時期になるとファブリダムのゴムを膨らませて金草川から農地に水を引き入れる。
口ヶ島の元農業委員のA氏が若い時には、石畑のB氏に現在のファブリダムよりも簡易な堰を作って貰い、水を止めて用水を確保していた。
ファブリダム設置は岐阜県の金草川改修の最後の仕事で、その後金草川改修は養老町で行っている。
ファブリダムは関西に多いが、岐阜県では珍しい構造のダムである。
A氏が口ヶ島農業生産組合の役をやっている時に、一度だけ修理して貰った。現在も管理は口ヶ島で行っていて、ファブリダムの管理係がいる。
設置当時はファブリダムを使う際に電気で動かしていた。電気を使うと電気代が口ヶ島負担であったので、その後給油式のコンプレッサーを使ってゴムを膨らませるようになった。
現在は老朽化しているが、何とか維持できている。
昔の井戸は鉄管ではなく竹管であった。口ヶ島の住人、A氏の家では、昭和20年代後半頃に井戸を掘った。樋門等で有名な日比鉄工(ひびてっこう)が開業間もない頃に井戸の中に鉄管を入れてくれた。その当時、A氏宅は古い2階建てであったが、棟の上まで水が噴き出した。作業している人は、カッパ代わりに笠と蓑を身につけ、「ここは良く水が出るな」と言っていた。
A氏が家を建て直した時、新たに井戸を掘った。口ヶ島(くちがしま)は、西から東方向に水脈がある。A氏宅の裏の家は水脈がないのでなかなか水が出ないが、A氏宅とA氏の南側の家はよく出る。2012年の日照りでA氏宅の井戸が干上がったのは3、4日程度だった。