田代神社の例祭は下高田が中心になって行っていた。ある時期下高田と西町の間で田代神社の秋祭りの出し物の件で意見が合わなくなり、西町は西町で神社を持とうということになった。昭和12年12月に柏渕家の土地を買い受けて愛宕神社の御旅所を設けた。田代神社の祭礼から高田の人たちが独立するような形で高田祭りは始まった。当初は下河原が即興の芝居である俄(にわか)を作って愛宕神社に奉納した。
下河原の奉芸は次第に簡略化され、下河原車山に寄付をした柏渕家を含む全ての家に「お福の舞」が奉芸されていたが、戦時中に一時休止され、時代の風潮により個々の家に対する神楽の奉芸は約3年程前からなくなった。現在はお福の舞いは神社でのみ奉納されている。
高田祭りになってから下河原、中町と東町、西町がそれぞれ車山を持ち、3輌になった
高田祭りで挨拶が西町から行われるのは、地主の力が強かった封建時代の名残である。西町と下河原は地主と小作の関係にあった。東町にも地主はいたが、山車を作る力や支配力は西町の方が強かった。
祭の始まりの挨拶も引き別れの挨拶も西町から行う。昭和の終わり頃に一度だけ挨拶の順序が逆になってしまったことがあり、喧嘩になりかけたこともある。また、更に昔には車山組の間で対立して、山車を3日間ほど動かさないで放置していたこともある。
祭りの始まりと引き別れの挨拶は、過去には年ごとに3町が順番に行っていたという説もある。
愛宕神社の例祭で、車山が下る午後に、西町内の何軒かで、車山の購入資金出資のお礼という意味で、獅子舞を奉納する習わしが続いていた。封建時代の名残という意識があり、下河原の人にとっては抵抗があるため、平成21年位から行われなくなった。
下河原では車山が来る前、8時30分から9時頃に神社に獅子舞を奉納する習わしがある。
元町には車山がないので高田祭りとは関係がない。
1997年頃から祭りの撮影会を開いている。商工会議所に西町車山を中心に写真等を保存してある。

御旅の列の順は、昔からの町同士の力関係が現れている。神事には神事課、氏子総代が参列する。高田祭りにおいて神事課は仲働きのような存在である。愛宕神社での神事の際、境内に総代ら整列する順も決まっているが、年毎に車山組で交替する。玉串奉奠の順なども同様である。

最近では時間がかかるため、供物を先に並べてしまう。祭礼の役割分担などで揉めることも大いにあった。中町の車山の引き分かれをする場所で大喧嘩をしたこともある。祭礼の始まりの挨拶は、昔は西町車山組と東車山組で交替に行なっていた。東車山組は東町と中町の2町内で構成され、2町で挨拶を交替しており、しきたりがうまく伝わっておらずやりとりに食い違いが起こった為、挨拶は全て西町から行なうようになった。祭礼の挨拶の際は羽織袴を着用と決まっていたが、以前に東車山組内で伝達がされておらず普段着や平服で現れる者がおり着替えて来るようたしなめる場面もあった。それ以降、東車山組がマニュアルを作成し、祭りの流れやしきたりなどについて西町からも手引きをした。車山の修繕がなされ、祭りの運営が落ち着いて来たのは平成15年(2003)くらいからだと思う。

高田祭りの際の正装は、本来は羽織袴であった。近年では紋付を仕立てることや、着付けが難しくなってきており礼服でも良いという風潮になってきた。氏子総代や車山に付く役員などは必ず羽織袴着用と決められている。多岐神社の例祭では裃(かみしも)を着用するが、高田祭りではそういった話は父親からも聞いたことがなく、裃は所有していない。

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表示位置は愛宕神社の御旅所を示している。