多芸郡祖父江村は、元和2年(1615)の関ケ原合戦から15年後に江戸幕府より幕府直轄の地となった。庄屋は川瀬彦兵衛といい、江州(現在の滋賀県)の豪族の子孫であった。当地は早くより開発された地域で、杭瀬川、小畑川に挟まれた微高地である。多くの河川が集まってきた所で、水運の便が良く交通の要所であった。祖父江輪中は日本一小さな輪中で面積は30町歩で石高は600石あるが、相川、杭瀬川、小畑川に囲まれた輪中であるので悪水の排除に苦しんだ。輪中が成立したのは1693年頃と楽邦寺文書に記録されているが、これは祖父江新田の開発年代であろうと思う。

慶安3年(1650)頃、牧田川の大洪水により杭瀬川、小畑川の河床が高くなり、祖父江輪中江月輪中の悪水の排水が悪くなり、祖父江村は天明3年(1783)に杭瀬川に伏越樋管を伏設して大垣藩の上笠村より西村、横曽根村を経て鵜森村まで排水路を掘削して伊尾川(いびがわ)まで落水した。

その水路図が岐阜県歴史資料館にあるが年代は不詳である。当時の庄屋川瀬彦兵衛は堤防取締役であった。

また岐阜県歴史資料館史料として宝永年間に記された祖父江輪中の本囲堤延長絵図があり伏越樋管の位置が示されている。

古文書は嘉永元年(1848)に祖父江村より笠松代官所堤方役、水野桂次郎へ宛てた悪水吐伏越樋御普請配賦に関する文書がある岐阜県歴史資料館に保管されている。

養老郡役所の土木技師であった祖父江村の佐竹惣六氏が監修された祖父江伏越樋管の詳細絵図の作成年代は不詳であるが、これによると杭瀬川は本流と分流があり、伏越樋は2本ある。中間の中央部は開渠となっている。この伏越樋の遺構は現在も川底に残っている。

昭和7年(1932)頃の「杭瀬川改修計画図」の青図の一部には祖父江地区杭瀬川に伏越樋管の位置が矢印の部分に明記されている。

この伏越樋管は天明3年(1783)より大正13年(1924)まで祖父江、江月村に共同による近代的機械排水機が設置されるまで131年間使用されていた。この伏越樋は当初より何度も何度も失敗を重ね、初めは測量の失敗で水が落ちなかった。2度目は工事の失敗で大洪水により、水管が流失したり苦難の連続であったと伝えられている。

この伏越樋管の工事は庄屋、川瀬彦兵衛の自費による自普請工事であった為、庄屋は借金がかさみ、明治初期頃には倒産の憂き目にあった。また、借金の利息の件で裁判となり、土地、建物は他人の手に渡ったが、伏越樋管のその働きは大正13年(1924)まで継続された。その後、江月・祖父江両村共有の排水機が作られたが、昭和35年(1960)名神高速道路の建設により両地区に別れて土地改良が施工され、排水機もそれぞれに設けられた。平成年代には近代的な排水機と祖父江逆水樋門が建築された。

樋管跡には水神宮が祀られ毎年祈念祭が3月16日に集落民によって行われている。3月16日は天明年間に伏越樋管が完成した日と言い伝えられている。現在、祠は祖父江の八幡神社境内に合祀されているが、旧水神跡には石碑が建てられている。付近には、往時祖父江村の年貢米が納められた御倉跡と火の見櫓があり、また明和3年(1766)に建立された大神宮燈明があり、伊勢信仰の名残を留めている。大神宮燈明に樹齢300年の大松が平成初頭まであったが、枯れて根元だけが残っている。この松は明治24年測量の起点とされたと伝えられていた。

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表示位置は祖父江の水神跡を示している。