養老公園の老舗料理旅館掬水(きくすい、養老町養老公園1286-1)は明治23年(1890)に創業した。創業者は養老町中の高木賢次郎(たかぎけんじろう)氏である。
その後、息子の代になって、名古屋紡績が旅館を購入した。名古屋紡績の本社の人が支配人として時々旅館に来て管理をしていた。
穂積町に名古屋紡績の工場があり、社長は時々寄って泊まっていた。
昭和35年(1960)頃には現在の本館である建物が出来上がっていた。その頃は掬水の正面の下の場所が全部駐車場だった。数年して旧館の広間から出火した。当時建物はカギ型に建てられており、現在の本館は焼け残ったが、旧館は養老神社から見える一番上の山手部分まで燃えた為、火事以降しばらくは現在の本館だけで営業した。現在の二階の広間は当時では珍しいダンスホールだった。ダンスホールはよく近所の人達で賑わっていた。旧館が火事になって広間が無くなったので、ダンスホールに畳を敷いて急遽広間に改築し、旧館の板場も焼失した為に現在の本館の一階に板場を移した。
当時の写真は存在しないが、妙見堂からみた古い掬水の写真がある。それを見ると建物がカギ型になっていることがわかる。現在、掬水からは妙見堂は屋根しか見えない。
現在の浴室は1965年の岐阜国体の時に、選手団が宿泊する為に浴場の拡張を依頼されて改築した。
やがてA家の御主人に旅館の経営をしてくれないかとの依頼があり、昭和56年(1981)頃に名古屋紡績から旅館を購入した。
創業者の代からB氏が番頭として掛け軸の掛け替え、生け花など館内の細々とした管理をされていた。B氏はA夫妻が名古屋紡績から旅館を購入した頃にも掛け軸や生け花の管理をしていた。
昭和50年代、旅館は忙しかった。旅館の経営は最初A家の御主人が行っていた。A家の奥様は掬水に居住されていなかったが、旅館が忙しいので週末は手伝いに来ていた。
掬水の名前の由来は地名の菊水からつけられ、昔は花の「菊」で「菊水楼」という旅館名だった。後に菊に手偏がつき「掬水」になった。菊水泉の水を掬うので「掬水」という旅館名になったのではないかと思う。館内の水は菊水泉の水が使われており、水道の水は使っていない。
昔、掬水でお見合いをしたら成立するといわれていた。お見合いが成立すると掬水で結婚式が行われた。
掬水に昔、皇族が泊まったという噂もあったが宿帳がないので詳細は不明である。
掬水の宿泊者は会社関係の人が多く宿泊された。
昭和56年(1981)、57年(1982)頃の客層は戦友会・同窓会・会社関係の慰安旅行など団体客が多かった。
若い層のお客様になってからはカラオケブームもあり部屋での遊び方も変わってきた。
昭和50年代頃、掬水では、鉄平石の上で肉や野菜を味噌で囲んで焼く料理がお客様にとても喜ばれていた。
昭和初期、掬水はとても繁盛していた。下笠の三ツ屋の川魚の業者が鯉や鮒、鯰、鰻を運んで大きな生け簀に入れて行くが、慌ただしく作業をする為、魚はほとんど滝谷へ逃げ出してしまった。滝谷にはいつでも逃げた鯉がいたので、C氏は5〜6人の友達とその魚を一人あたり20〜30匹程捕まえて、逆に掬水の大女将に売り、1匹5銭で買ってもらった。
表示位置は料理旅館掬水を示している。