その他

一色で、戦争中は灯火管制で布をかぶせてカンテラを使っていた。村で、戦時にラジオを持っていたのはお金持ちの家くらいだった。玉音放送を聞いて、下多度村(海津市南濃町)の婦人会長さんが「日本は神国なのに負けてしまった」と泣いていたのを記憶している。
大東亜戦争と支
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横屋のA家は高須の禅寺が男門徒、有尾の明楽寺が女門徒となっていた。女性が亡くなった場合は明楽寺で法要を執り行われたが、現在は男女関係なく禅寺の方で法要を執り行う。
B氏は下多度の小学校を卒業後すぐ工場に行って働き始めた。14,5歳の時に予科練に志願、岐阜の公
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沢田の下町、上町をマチ、山手の本郷をマチマチと言った。昭和10年代は店が多く、自転車屋、旅館、雑貨屋、塩屋、菓子屋、家畜商などがあった。また、法事や葬式の請負もあったので、高田まで行かなくてもほとんどの用は沢田内で間に合った。旅館には北陸へ行く旅人や行商人が多
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白石村あたりは田中一族が半数を占めていた。藤塚一族は山から下りてきて養老村に入り、一時期20軒程あった。現大垣市上石津町打上(うちあげ)の多良の里山から山番の為に山越えをして養老に下りてきていたが、往来が大変なので仮宿を作ったのが始まりである。藤塚代蔵(ふじつ
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京ヶ脇は白石が本元である。住所も白石村字京ヶ脇となっていた。
妙見堂のあたりに屋敷があった。昭和20年代に柱の跡のようなものが残っていたのを覚えている。
養老公園の妙見堂上り口と渡月橋右岸に妙見山(妙見堂を指す)と書かれた道標がある。
京ヶ脇の稲荷神社の
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