教育

昭和24年(1949)に養老へ来た時にびっくりしたのは、トラコーマ(伝染性の結膜炎)患者が非常に多かったことである。名古屋ではトラコーマはなく、大学に一人患者がいると珍しかった。また、養老では斜視、弱視、視力の悪い子が多かった。大学でその話をしたら、驚かれ、論
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養老小学校を良くするために、衛生面では各階に手洗いをつけた。また、暗いと子どもの姿勢が悪くなるため、照明を配慮し、窓際と廊下側で明るさが変わらないようにした。
半田登喜代氏は、どこの学校へ行ってもトイレを見るので「便所会長」と呼ばれていた。養老小学校のトイレ
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小畑・日吉にはすでに鼓笛隊があった。半田登喜代氏が養老小学校にも鼓笛隊を作ろうとしたが、先生方から手間が掛かるので絶対にダメだと反対された。4、50万円のセットを強引に置き、教育委員会に頼んで、鼓笛隊を指導していた別の学校の先生を寄こしてもらった。
子どもた
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大正12年(1923)7月、田中義一氏を代表とする当時の高田青年団が『高田町史』という、高田出身の人物の歴史を書いた本を作った。
田中義一氏は精力的に色々な有志の会を開いていた。その位、高田にゆとりがあったのであろう。昭和の始めの頃にはもうそういった有志の会
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戦時中は現在高田中学校が建っている場所には薩摩芋畑があった。
A氏が昭和21年(1946)に軍隊から帰ってくると、ベビーブームの真っ最中であった。
高田中学校には、1学年350人いた。それを6学級にして、一学級60人で勉強した。当時は、朝は予習をし、7時間
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