伊尾川(いびがわ)の鵜森伏越樋管と伊藤伝右衛門と祖父江の庄屋
寛永11年(1634)、預所6万9千石を知行する戸田氏は摂津尼崎城より転じた以後、大垣領内の新田開発について特に南部の洲本、浅草、多芸島の開発に尽力し、祖父江輪中の悪水を杭瀬川を伏越し、大垣輪中に水路を造り、横曽根より鵜森(うのもり)樋門により伊尾川へと排水が [...]
タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。
災害
寛永11年(1634)、預所6万9千石を知行する戸田氏は摂津尼崎城より転じた以後、大垣領内の新田開発について特に南部の洲本、浅草、多芸島の開発に尽力し、祖父江輪中の悪水を杭瀬川を伏越し、大垣輪中に水路を造り、横曽根より鵜森(うのもり)樋門により伊尾川へと排水が [...]
多芸郡祖父江村は、元和2年(1615)の関ケ原合戦から15年後に江戸幕府より幕府直轄の地となった。庄屋は川瀬彦兵衛といい、江州(現在の滋賀県)の豪族の子孫であった。当地は早くより開発された地域で、杭瀬川、小畑川に挟まれた微高地である。多くの河川が集まってきた所 [...]
江戸時代中頃になり、高田の町並みが発達してくると家屋が建て込み、表通りに面して間口を割り当てられ縦長の敷地いっぱいに建物を建てるようになった。中長商店も通り庭の間取りで土間が奥に通じている。表通りから、店、中の間、座敷と並んでいる。二階は大広間があって上段の間 [...]
天明年間(1781~1789)に屋号「中野屋」通称「中長」を創業したと思われ、それ以前から一家は高田に居住していたと思う。中長の名称の由緒は分からないが、屋号「中野屋」の中、若しくは一家の名字である田中の中と長次の長を取って「中長」としたと思われる。中長の当主 [...]