江戸時代中頃になり、高田の町並みが発達してくると家屋が建て込み、表通りに面して間口を割り当てられ縦長の敷地いっぱいに建物を建てるようになった。中長商店も通り庭の間取りで土間が奥に通じている。表通りから、店、中の間、座敷と並んでいる。二階は大広間があって上段の間が2部屋、女中部屋が1部屋あり、女中部屋からは階下の店が見通せるようになっている。一階広間の仏間には浄土真宗の仏壇が供付けてあり、本尊は阿弥陀如来の絵像で仏壇は彦根壇、豪華な荘厳はとなっている。景陽寺の門徒である。
二階の一段床が高くなっている上段の間には郡長時代の髙木貞元氏が泊まったといわれており、床の間は書院造りである。江戸時代末期に書院造りの上段の間を作ったのは当時、当家には上流階級の人々が来訪したことが伺える。髙木貞元氏から長次に宛てた書簡が残されている。
文政2年(1819)建築の蔵の鬼瓦が庭に残されており、側面には「濃州表佐村 習井瓦屋 井上助左衛門 藤原正則」と刻印されている。また年代は不明であるが、鯛を抱えた恵比寿様の鬼瓦も残されており、こちらは「不破郡 尾賣捌所 昼飯村」と刻印されている。
棟柱に明治27年建立と記されていることが発見され、中長当主と大工の棟梁らの名が「中嶋甚助、木口一瀬村 後藤仁三郎、周旋人 金屋西岡」と記されていた。明治24年(1891)に濃尾震災が発生し、その為家屋を建て直したのではないだろうか。また天保年代から使用されていた戸がある。
大正から昭和年間には店舗の2階の広間が中町の会合に活用されていた。