天明年間(1781~1789)に屋号「中野屋」通称「中長」を創業したと思われ、それ以前から一家は高田に居住していたと思う。中長の名称の由緒は分からないが、屋号「中野屋」の中、若しくは一家の名字である田中の中と長次の長を取って「中長」としたと思われる。中長の当主は代々「長次」を襲名していたが、残された資料には「長治」と「長次」がある。また中野屋の「野」の字が「埜」と記されているものもある。なぜ表記が異なるのかは不明である。
文政13年(1816)高田の大火の記録によると、その見舞帳のなかに「中野屋長次」の名前で見舞いの品が送られた記録がある。この火事見舞帳が屋号「中野屋」の名前が見られる最も古い文書である。辻物の一部膳脱などにも「中長」の屋号が見られる。明治初期からの大福帳には、多良旗本髙木家の御用商人としての記録も残っている。
初代長次の妻で文化元年(1804)生まれのユキは大阪に出て商人の修行をして高田に帰ってきた。その後、食料品、薬等の事業拡大を図ったのではと思う。
ユキより中長を相続した長男の長兵衛は、明治9年(1876)に2才の娘のひさを残して早世し、三男の平兵衛が長兵衛の跡を継いでいる。平兵衛は小野平兵衛と名乗っていた。平兵衛は三男であったため一旦養子に出たが長男の長兵衛死去により高田に戻り家業を継いだ。額装された平兵衛の写真の裏には、「安政11年7月(1864)生まれ、田中長次三男に生まれる。天保年に杉江林右衛門より習字を修め、その後は大阪へ奉公に出た。家長であった兄死去の為実家へ戻り、中長を相続する。西町の中嶋甚助の妹を妻に娶り、一男二女に恵まれた」と記されている。写真は小野平兵衛が65歳の明治25年(1892)6月に撮影された。
西町の中嶋甚助とは大工の棟梁で、中長家屋の棟柱には平兵衛67才、梅治郎26才と書かれた隣に中嶋甚助の名も記されている。平兵衛はひさが養子を取り結婚するまでの中継ぎであったため、名字は小野のままであったのかもしれない。
先代より平兵衛の妻がひさの継母となったと聞いており、長兵衛の妻は夫亡き後、実家に帰ったものと思われる。ひさは行儀見習いに出され、茶華道、編み物、香道など多才で、編み物の先生をしている写真があった。ひさは梅治郎を養子に迎え結婚したがなかなか子に恵まれず、結婚して13年後の明治39年(1906)に長女のゆきをはじめとして三姉妹を授かった。ゆきは戦前まで店員3人、料理人3人を抱え仕出し屋の家業を仕切っていたが、戦中以後は商売の事情も変わり、しょうゆや味噌などの小売りを家人のみで行うようになった。ブリキの看板や田中長治商店と店名の入った木製看板や、中長と染められたのれんなどが残されている。
岐阜県高山市出身の作家、江馬嵩が昭和28年(1953)に出版した小説、「星の群」に収録されている短編のひとつに「祖母達」という作品がある。江馬嵩と中長は婚戚関係にあり交流があり「祖母達」にはゆきが中長の若女将として商売を切り盛りする様子とその家族が登場している。江馬嵩が傾倒した武者小路実篤が江馬嵩の短編著作のなかでこの「祖母達」が最も良かったと評した。
高田の共同墓地に一族の墓碑がある。最も古い墓碑は寛政7年(1795)に建立されたものである。