寛永11年(1634)、預所6万9千石を知行する戸田氏は摂津尼崎城より転じた以後、大垣領内の新田開発について特に南部の洲本、浅草、多芸島の開発に尽力し、祖父江輪中の悪水を杭瀬川を伏越し、大垣輪中に水路を造り、横曽根より鵜森(うのもり)樋門により伊尾川へと排水ができた。
大垣藩主の戸田氏教(とだうじのり)は、藩士伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)を工事の責任者に命じ、伊尾川の安八郡塩喰(しおばみ)村と鵜森(うのもり)を結ぶ川底に木製のトンネルを造り、大垣輪中の低い地域の悪水を排水する伏越樋管を作らせた。この樋管に祖父江村伏越樋管の悪水を落水すべく多大な尽力をしたのが祖父江村庄屋川瀬彦兵衛であった。祖父江村は江戸初期より幕府直轄地であったのと彦兵衛は庄屋でありながら笠松代官所において堤防取締役をやっていたとの資料がある。
一方、伊藤伝右衛門もこの事業に一命を懸けた。鵜森の現地には伊藤伝右衛門の顕彰碑があり、碑の上部には「殺身人民」と刻され、まさに壮烈な生涯を遂げた。
当時、大垣輪中の南部の水田用水は水門川より引き入れていたが、輪中の上流の地域の開発も進み、南部の灌漑用水に不足をきたして来たので、上流の杭瀬川北部の福田の堰より山王用水の引き入れが行われるようになったが、特に多芸島輪中は標高が高いので用水の確保に苦労した。そこで杭瀬川の上笠地内に堰を作り、杭瀬川の堤に樋門を作り、これより用水を多芸島地内に引水した。その石造樋門は今も堤中に遺跡として残っている。明治38年(1905)に書かれた佐竹惣六日記には「上笠村、祖父江悪水樋より用水引く」とあり、また「6月30日祖父江悪水樋管今暁4時半開樋せり」とある。「祖父江伏越樋管」絵図によると、祖父江輪中の悪水落江は、上笠村の用水樋管の中に落ちている構造になっている。多芸島輪中は祖父江村伏越樋管に落ちる祖父江輪中の悪水を利用して水田用水としたと考えられる。また、上笠村の庄屋国枝家の資料によるとこの樋門には樋守の番人が常駐していたとの資料が残っている。祖父江伏越樋管の管理は上笠村が管理の責任を持っていたようである。
また、祖父江には高い江代米と組合費の為に、明治37年頃には脱会の議決をしている。
多芸島輪中と杭瀬川の水利権の関係と大垣市西部を流れる山王用水の資料は今後の研究を待ちたい。