高田

戦時中は現在高田中学校が建っている場所には薩摩芋畑があった。
A氏が昭和21年(1946)に軍隊から帰ってくると、ベビーブームの真っ最中であった。
高田中学校には、1学年350人いた。それを6学級にして、一学級60人で勉強した。当時は、朝は予習をし、7時間
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A氏が子どもの頃、昭和の初め頃は、高田祭の車山(やま)を全部ばらして保管していた。
車山蔵が出来てからは、飾り物だけ外して、本体はそのまま保管した。
常盤(ときわ)町の車山で子ども歌舞伎が上演されていたこともある。戦争が激しくなったら、車山を出さなくなり、
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A氏は、昭和29年(1954)に「ひらけゆく郷土」という本を作った。社会科の副読本として、各学校へ15冊位ずつ配った。当時まだ養老町の図書館はなかったので町の図書館には置いていない。
その時の写真は、自分で撮影に行き、現像もすべて自分でやった。
原板は残っ
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戦後の教育は、国からの一方的な情報だけで行っていた。しかしやがて、色々な情報を得てそれを自分で取捨選択し、一方的な教科書を教えるだけではない教育をしなければならないと考えた。その結果、放送教育を始めることになった。
その後、組合の委員長を専従で2年勤めた。
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A氏は戦前に教員をしていた。出兵し、戦争が終わって帰って来たのは終戦の翌年、昭和21年(1946)である。復員後、教員に復職する気が起きず、半年間は学校へ行かなかった。
帰ってきた時、人間はこんなに変わるものかと思った。行く時は手を振って万歳三唱だったが、帰
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