祖父江輪中提の開墾
朝日新聞の記事中に、小畑村国民学校と青年学校(高等科の前身)の勤労奉仕で、祖父江輪中堤の天端(てんば、堤防の一番高い所)の開墾をしている写真がある。戦中は大豆などを栽培して食糧増産を図る為に、土手の堤防の荒地を授業後に鍬鋤を振るって開墾した。 写真を見ると祖 [...]
タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。
小畑
朝日新聞の記事中に、小畑村国民学校と青年学校(高等科の前身)の勤労奉仕で、祖父江輪中堤の天端(てんば、堤防の一番高い所)の開墾をしている写真がある。戦中は大豆などを栽培して食糧増産を図る為に、土手の堤防の荒地を授業後に鍬鋤を振るって開墾した。 写真を見ると祖 [...]
笠郷は、栗笠・烏江 ・船附の湊は、笠郷地域の文化の繁栄の元となっていた。 昭和10(1935)年前後は、笠郷小学校の2階から牧田川の帆掛船が見えた。梶のぎーぎーという音が学校まで聞こえた。当時は水量が豊富であった。 昭和10年代前半は烏江の鉄橋よりも堤防の [...]
飯田の相順寺に飯田在住の門徒が少ないことなどから、飯田は地域としてひと纏まりになっていないように思える。 歯医者さんや油屋さんなど、飯田から出て行く人も多くいた。最近、上石津から移ってきた人もいる。 飯田は比較的高い場所にあるので、水がつくことはない。祖父 [...]
明治の頃まで高田橋は大きな橋ではなく、木造の小さな橋であった。 昭和29年(1954年)に高田中学を卒業した飯田在住の方によれば、高田橋は昭和27年頃(1952年頃)の台風や豪雨で頻繁に流されてしまい、中学に通う3年間で何度も牧田川の河床を歩いた。台風などで [...]
永禄9年(1566)の絵図によれば現在よりも小畑川は細かった。小畑川、立出川(たてだしがわ)の湧水が流れる川なので、水質がとてもきれいである。