大跡新田
大跡新田の開発者は庄屋筋の戸倉家ではないだろうかと考えている。米がよく収穫できる土地であった。 大跡新田は農民によって開墾された土地である。 大跡新田の位置は宝暦年間(1751-1763)はまだ池であった。
タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。
経済
大跡新田の開発者は庄屋筋の戸倉家ではないだろうかと考えている。米がよく収穫できる土地であった。 大跡新田は農民によって開墾された土地である。 大跡新田の位置は宝暦年間(1751-1763)はまだ池であった。
大跡(おおあと)は低い土地なので元々水がつきやすい。 大跡はかなり大きく、村の南に100町歩の土地がある。 大跡から高田へ抜ける町道の高さは今よりも高かった。昭和36(1961)年~昭和39(1964)年の土地改良の時に現在の高さになった。
大跡では昭和30年頃は、村の行事や決め事は青年団が仕切っており、若衆宿もあったが昭和40年頃に解消した。
世に宝暦の治水と呼ばれた薩摩藩による「濃州、勢州、尾州、川々御手伝御普請」は、宝暦4年(1754)から5年(1755)にかけて一ヶ年余りの歳月をかけて947人という薩摩藩士と総工費約40万両という巨費を投じて完成した。 2010年現在32代目の島津家当主も毎 [...]