経済

大跡(おおあと)は低い土地なので元々水がつきやすい。
大跡はかなり大きく、村の南に100町歩の土地がある。
大跡から高田へ抜ける町道の高さは今よりも高かった。昭和36(1961)年~昭和39(1964)年の土地改良の時に現在の高さになった。

大跡では昭和30年頃は、村の行事や決め事は青年団が仕切っており、若衆宿もあったが昭和40年頃に解消した。

世に宝暦の治水と呼ばれた薩摩藩による「濃州、勢州、尾州、川々御手伝御普請」は、宝暦4年(1754)から5年(1755)にかけて一ヶ年余りの歳月をかけて947人という薩摩藩士と総工費約40万両という巨費を投じて完成した。
2010年現在32代目の島津家当主も毎
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大巻は養老町よりも、海津市南濃町や安八郡側に生活圏があった。
南濃町早瀬の桜堤防は大巻の小学生の遠足場所であったが、今は桜堤防の桜の木は道路拡幅の為に伐採されてしまってほとんど残っていない。
津屋川は昔は、水がとてもきれいで子供達がよく泳いだ。水遊びだけで
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土地改良事業で瑞穂東の辺りは美田化された。
瑞穂字枠池の西にあるやや低い堤防は伊勢湾台風の頃には既に存在していた。堤防沿いは昔から現在に至るまで宅地になっているが、伊勢湾台風までは堤防の川側にも土盛りをして家を建てていた。
2010年現在の堤防は明治の河川
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