経済

養老町には昔下池(しもいけ)と呼ばれた大きな池があった。下池は200町歩(約198.3ha)あって残っていれば岐阜県で最大の池であった。
養老町史の中に下池で1年でウナギが1000貫目(約3750kg)獲れたという資料がある。
駒野新田の庄屋国枝彦太郎とい
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大場では田植え時期になるとお寺が10日間ほど幼児を預かった。西運寺には滑り台があって楽しみのひとつだった。学校では農繁期休暇があり、子供も田植えを手伝った。
第二次世界大戦の終戦から2年間、三神町で作ったスポンジの毬をリュックサックいっぱいに詰め込んで、汽車に乗り京都や大阪に売りに行った。京都駅には取り締まりの警官がいたため、山科付近で窓から投げ捨てた。当時の鉄道の状況は、大垣に戻ってくる切符は一週間に一度しか売ら
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多芸小学校は、昭和22年(1947年) 、多芸尋常小学校から養老郡多芸村立多芸小学校と改称され、校舎が増築された。直江、飯積、金屋の地域の人々が共同で小谷山の木を切り出して校舎を建てた。現在は敷地の半分は住宅地になっている。
多芸高等尋常小学校の校章には鏡、
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飯積の干拓地は元、小字で小物成(こものなり)と呼ばれたように、作物が採れない土地であった。米以外の野菜で年貢を納めた。河間田(がまだ)という小字名もある。
飯積の干拓は、現在の大垣養老高校の北、飯積字小物成地区から土を運んだ。