養老町には昔下池(しもいけ)と呼ばれた大きな池があった。下池は200町歩(約198.3ha)あって残っていれば岐阜県で最大の池であった。
養老町史の中に下池で1年でウナギが1000貫目(約3750kg)獲れたという資料がある。
駒野新田の庄屋国枝彦太郎という人が江戸時代中期に一番最初に下池干拓に手を付けたという記録がある。しかし、国枝彦太郎氏の干拓は失敗に終わった。
大昔は釜段の才勝まで湖だったが、17世紀後半、尾張藩士森半入(もりはんにゅう)らにより、下池干拓が成された。下池輪中が作られた後、輪中を半分に分ける背割(中除・なかよげ)が作られ、中除を中心に東の平(ひら)・西の平(ひら)に分けられた。中除を基準に東側が深さ約30cm、西側が約60cmの遊水池にしてあった。多大な費用がかかった為、森半入は自害した。
才勝に干拓の成功を祈念して碑が建てられた。

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表示位置は皂莢経塚を示している。