第二次世界大戦の終戦から2年間、三神町で作ったスポンジの毬をリュックサックいっぱいに詰め込んで、汽車に乗り京都や大阪に売りに行った。京都駅には取り締まりの警官がいたため、山科付近で窓から投げ捨てた。当時の鉄道の状況は、大垣に戻ってくる切符は一週間に一度しか売られないため、それまでリュックサックを枕にして駅で寝て待った。商品を売りつくして手ぶらで戻ってきた。ヤミ米は養老の場合1俵8円から10円で売られており、30円あれば家が一軒建った時代であった。ヤミ米を運ぶには座席の下の隙間に入れて隠して運んだ。警官の立ち入り検査で捕まるわけにはいかないため、自分のものではないふりをした。

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三神町でスポンジの毬を作った場所は不明である。 表示位置は三神町を示している。