経済

和田では虫送りは行っていなかった。
和田では誘蛾灯があった。油を使って灯をつけ、害虫を集めた。小学校に入ると6年生くらいまで稲の害虫取りをした。苗場ができると、学校の午後の授業が終わってから、班長に連れられて虫取りに行った。稲の葉先の虫をとり、瓶の中に入れて
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戦中当時は子どもの弁当の差が歴然としていた。百姓の子は自分の家で作っているもので弁当を作って持ってきていたが、今尾は町なので、弁当を持ってこられなかった。家に帰っても、食べるものが無く、マツバシ(字下笠の地名)でお昼が終わるのを待っている子どももいた。こっそり
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昭和12(1937)年7月7日の日中戦争勃発、翌年の国家総動員法により日本は軍国主義に入った。その洗礼を真っ先に受けたのが教育であった。昭和10年代後半は、中部地方は東部軍管区であった。A氏が中学3年生の時に予科練が出来、全員志願するように言われた。陸士(陸軍
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笠郷で昭和10(1935)年頃は、高田祭に行かないと恥ずかしかった。親の都合が悪い時は、隣の人に連れて行ってもらうこともあった。
後にA氏が池辺小学校に教師として赴任してきた頃、池辺は日吉や室原など、養老の北の方とは交流がなかったが、やはり5月の高田祭には行
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下笠では4月に田んぼ休み(野休み。「のやすみ」または「のうやすみ」)が1日あった。野休みに田んぼへ行くと、罰金を取られた。罰金を出さないと、村八分にされた。火事、葬式以外村八分にされてしまうので、皆従った。やがて戦争が始まり男手が無くなると、野休みなど村共通の
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