昭和12(1937)年7月7日の日中戦争勃発、翌年の国家総動員法により日本は軍国主義に入った。その洗礼を真っ先に受けたのが教育であった。昭和10年代後半は、中部地方は東部軍管区であった。A氏が中学3年生の時に予科練が出来、全員志願するように言われた。陸士(陸軍士官学校)、海兵(海軍兵学校)に入るように言われたが、陸士、海兵に入れるのは中学4年生からであった。甲種飛行予科練修生は中学2年生から受験資格があったので、A氏も受験に行った。
大正14(1925)年生まれのニシタニマスミ氏は、南方の特攻隊で戦死し、海軍大尉に2階級特進した。今でも船附字村内(ふなつけあざむらうち)に碑がある。
昭和3(1928)年生まれの子どもたちは、戦争の影響で勉強ができる環境ではなかった。小学校3年生までしか勉強していない。その上4、5年生が一緒に卒業した年代である。5年生の時は、1年間学徒動員で工場へ行った。工場でも教科書を持って勉強した。昭和元年生まれは5年生まで勉強できた。
当時は、英語が敵性語であった。英語の先生が苦労した。英語の試験は、海軍兵学校はあったが、陸士はなかった。野球の言葉(アウト、セーフ、ファーストなど)も敵性語とされ、「アウト」は「だめ」などの日本語に置き換えられた。ファーストなどといったらなぐられた。A氏が5年生の時は、野球自体が禁止になった。その代わりに、戦場教育として銃剣術を習った。

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東部軍管区は、大日本帝国陸軍の軍管区の一つで、昭和15(1940)年に設置された。 甲種飛行予科練修生制度は、昭和12(1937)年に設けられた。設立当初の受験資格は中学4年1学期修了以上、修業期間は1年2ヶ月だったが、戦局の変化に伴い受験資格・修業期間共に改正が繰り返された。甲種の受験資格が中学2年修了者と改正されたのは昭和19(1944)年、当時の甲種修業期間は6ヶ月であった。 敵性語とは、敵対国や交戦国で一般に使用されている言語を指した語である。特に日本では日中戦争・太平洋戦争中にイギリス・アメリカを敵国とみなし、英語が日本語に置き換えられた。表示位置はニシタニマスミ碑を示している。