戦中当時は子どもの弁当の差が歴然としていた。百姓の子は自分の家で作っているもので弁当を作って持ってきていたが、今尾は町なので、弁当を持ってこられなかった。家に帰っても、食べるものが無く、マツバシ(字下笠の地名)でお昼が終わるのを待っている子どももいた。こっそり自分のお弁当をあげたこともある。
その頃は、学校の運動場の半分はさつまいも畑だった。三ツ屋の堤防の半分もさつまいを植えていた。子どもたちは、自分が食べるものであったので、文句も言わず畑仕事をした。当時今尾は、半分商人、半分百姓をしていた人が多かった。長髪だったシムラ氏(漢字不明)は、政府に米を出すように命令されたが、出さなかったので、警察に逮捕された。
戦中に食糧管理法という法律があり、一年間で個人が保有できる米は決められていた。シムラ氏は余剰分の差出を拒んだものと思われる。表示位置は笠郷小学校の運動場を示している。