祖父江輪中の排水の沿革
祖父江村には条里の名残の一之坪という字名があり、村の開発は相当古いと思われるが、相川、杭瀬川、小畑川などに囲まれた低地であったがために、数多くの悪水吐樋や悪水落江を必要とした。祖父江輪中は3600mに及ぶ長さの堤防によって守られて来たが、その為に悪水の排除に苦 [...]
タギゾウくんの養老ノート・・・養老町で見聞きした様々な情報を、テキスト・画像・位置を基に掲載しています。
経済
祖父江村には条里の名残の一之坪という字名があり、村の開発は相当古いと思われるが、相川、杭瀬川、小畑川などに囲まれた低地であったがために、数多くの悪水吐樋や悪水落江を必要とした。祖父江輪中は3600mに及ぶ長さの堤防によって守られて来たが、その為に悪水の排除に苦 [...]
祖父江輪中と江月輪中は1700年代の江戸時代中期頃、輪中形成時に小畑川からの水田用水の水利権を確保し、また新田開発や悪水の排除にも障害が生じないように約定が結ばれていたが、領主が異なる祖父江村と江月村の落江排水などの問題については、関係村々が主体的に交渉し協議 [...]
寛永11年(1634)、預所6万9千石を知行する戸田氏は摂津尼崎城より転じた以後、大垣領内の新田開発について特に南部の洲本、浅草、多芸島の開発に尽力し、祖父江輪中の悪水を杭瀬川を伏越し、大垣輪中に水路を造り、横曽根より鵜森(うのもり)樋門により伊尾川へと排水が [...]
多芸郡祖父江村は、元和2年(1615)の関ケ原合戦から15年後に江戸幕府より幕府直轄の地となった。庄屋は川瀬彦兵衛といい、江州(現在の滋賀県)の豪族の子孫であった。当地は早くより開発された地域で、杭瀬川、小畑川に挟まれた微高地である。多くの河川が集まってきた所 [...]
大正年間の高橋山羊牧場の領収書がある。ヤギ牧場の住所は養老郡高田町中村久次郎邸内となっており、1日1合、ひと月に3升のヤギ乳の販売価格は1円35銭であった。 明治37年の伊勢参宮控や、明治2年の金毘羅大権現燈明油銭寄帳の裏には延寿講と記されており、中長が [...]