祖父江輪中と江月輪中は1700年代の江戸時代中期頃、輪中形成時に小畑川からの水田用水の水利権を確保し、また新田開発や悪水の排除にも障害が生じないように約定が結ばれていたが、領主が異なる祖父江村と江月村の落江排水などの問題については、関係村々が主体的に交渉し協議して協定を結び、自らの力で堤防を普請して維持修復に当たって来た。明治期以後もこれらの約定は守られてきた。近代化により機械排水となり、輪中の村々が独自に排水、用水の樋管等を設置して、それぞれで維持管理するようになったが、大正13年(1924)機械排水になった当地域も排水用水の協定はそのまま維持され、江月村内に設置された排水機によって江月、祖父江両輪中の排水がなされていた。昭和35年(1960)に名神高速道路が両地区に建設され地区が分割された為に、名神高速道路を挟んで祖父江土地改良区と江月土地改良区に別れて土地改良が施工された。それぞれの灌漑、排水系統に別れ、昭和36年(1961)に団体営排水事業により排水機を設けることになったが、その建設途中に梅雨前線豪雨により西濃地方一円に冠水被害が出た。その時に江月輪中と祖父江輪中の境の除堤上に江月輪中だけに浸水しないように土嚢を積み、自分の輪中だけ排水に務めたので祖父江輪中の住民が怒り、この土嚢を実力により排除しようとしたので、双方で騒動になり、双方の住民200余人が険悪な状況になった。当時の養老町長山田良造氏が岐阜県警察機動隊に出動の要請をして隊員120名が現地に来たが問題解決にはならず、一昼夜双方の睨み合いが続いた。
双方に実力の行使はなかったが軽傷者1名と双方の暴言の浴びせ合いで終わった。最終的には南濃県事務所長と養老町長と双方の区長の調停により、祖父江の住民に水害の被害のないように土嚢を取り除くことになり落着した。近代最期の水騒動であった。場所は江月地内字寺町の除堤防上で、現在も堤防の高さは低くなったものの江戸時代そのままの景観が残っている。