西岩道では寺小屋の話は聞いたことがない。
岩道の常性寺、大跡の西源寺には寺小屋があったが、飯ノ木はよく分からない。
広幡小学校の前身の時習学校は大跡の随陽寺を借りた。広幡小学校の初代校長は戸倉谷三郎である。
明治政府により富国強兵策として教育に力が入れられた。1900年前後は4年生までしか学年がなかった上に、子供たちは農作業や家の手伝いがあったためあまり学校には行かなかった。
広幡に幼稚園が無いのは、幼稚園を作ったら保育園が成り立たなくなるためだと思う。その代わりに広幡の住民が子供を幼稚園に行かせたければ他の地区の幼稚園で受け入れてもらえることになっている。広幡の保育園は長時間保育(18時まで)をしているので、他地域からも申し込みは多い。ただし、小学校にあがる前になると友達を作るために地元の幼稚園に戻ってしまう。
広幡には、立身第一小学校があった。

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口ヶ島(くちがしま)の墓地は、元は金草川(かなくさがわ)の河川敷にあったが、増水すると水に浸かってしまい、堤防の上からお参りをすることもあった。お盆の時期にお参りができなくなってしまうこともあったので、金草川改修の時に現在の広幡小学校の裏手に移動した。この土地は口ヶ島の土地改良の時に畑だった場所を整備して墓地にしたものである。

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広幡公民館は、広幡小学校の跡地に建っている。
広幡公民館前の紅葉は樹齢不明であるが、昭和初期頃から同じような大きさで存在した。この場所は、広幡小学校が移転する前は、校庭の、集会室のすぐ傍だった。
紅葉を保護したいが、方法に困っている。一度コンクリートで固めた所が部分的に剥がれてきており、剥がれた所に防腐剤を塗っている。
昔から広幡には働きものが育つといわれており、公民館創立20年を記念して、勤勉の重要さを忘れないようにという意味をこめて二宮金次郎像を建てた。広幡小学校にも大きめの像が設置してある。公民館の図書室に「二宮金次郎(三戸岡道夫著)」がある。
広幡公民館に二宮金次郎像が建てられたのは、広幡公民館設立20周年記念の時である。
吹原文雄氏がアメリカに視察に行った際に二宮金次郎像が日本人の勤勉さの象徴となっていたことによる。

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広幡では土地改良は伊勢湾台風の影響が大きい。広幡地区内の事業費が3800万円程度であった。
工事の大部分が人力で行われ、日当が280円~800円程であった。
昭和34年の伊勢湾台風により、農家が大打撃を受けた。農業収入がゼロの年が続いたため、国により昭和36年に救農土木事業制度が設けられた。この制度は専業農家の救済を目的としており、広幡でも専業農家が多かったため、農業のかわりに土地改良工事に働きに出て収入を得ていた。
海津町高須が先に耕地整理を行い、A氏が海津町の耕地整理で使用された中古のトロッコ牽引用ディーゼル機関車を安く入手した。
大跡周辺には堀田や池が3か所あり、それらは下笠輪中堤防の土で埋められた。土地改良よりも前の話である。
大跡の水田は高低差がなく耕地整理の時、1枚の広さが8反の田んぼを水平に作ることができた。
平成の土地改良案では大跡住民の98%以上の賛同があったが実現には到らなかった。

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大跡の六社神社境内に、集中豪雨と伊勢湾台風時に浸水した水位を示した柱がある。集中豪雨のほうが浸水水位が高く、根古地で堤防が決壊し、水が一日かけて大跡まで上がってきた。大跡だけに輪中堤防(あほ除)があり、水の到達が遅らせることができた。あほ除は明暦2年(1656)に大跡輪中を金草川の水害から護るための輪中堤として築かれた。江戸時代より出水の度に除番が置かれたが、輪中に入水することはなく、その役目を果たすことがなかったので「あほ除」とよばれた。あほ除の建築者は不明である。
あほ除の一部に道を通した際、落垣(おちがき)を作った。落垣とは両脇に蛇柱(じゃばしら)と呼ばれる石柱を立て、増水時に水が輪中内に入らないよう蛇柱に掘り込んだ溝に厚さ7~8cmの板をはめこむためのものである。
1900年頃に大跡で水入りがあり、近隣住民が随陽寺に牛を避難させに来ていた。伊勢湾台風では稲はほぼ壊滅したが、残りはすべて手で刈り取った。用水は昔から変わらず金草川から得ている。
西岩道の長顕寺のすぐ西側の堤防が江戸時代に切れた。その位置に大きな池があったが、今はもう無い。
口ヶ島は慶安3年(1650)の大洪水の後現在の地に移った。それまでは大跡の東側にあった。口ヶ島八幡神社と長誓寺を一番高い所に建てた。
中心に東西に抜ける道を作り、その両脇に集落を形成した。中には大跡の東の方にいたが、慶安年間(1648-1651)に口ヶ島に移ってきた方もいる。
もとの口ヶ島があった大跡の辺りは今度インターになる。
西岩道の集落も水がつく為、より高い土地へと移動して現在の場所に集落が移っている。
伊勢湾台風の時は口ヶ島の家の前の道あたりはへその辺りまで水に浸かったが、玄関の前で水は止まった。
岩道で、以前より1m50cm高くした家ではまず水がつかないが、A氏が以前住んでいた高さの家では伊勢湾台風の時に畳の上35cm位まで水がきたのを覚えている。また、昭和34年の集中豪雨も忘れ難い。昭和19年に東南海地震があり、岩道180の周囲の家が倒壊した。倒壊した家の下から助けを求める声があちこちから聞こえた。広幡小学校の校庭にも亀裂が入った。
また、広幡の中の7地区に伊勢湾台風と集中豪雨の水位を示す標識と緯度・経度を示す標識が立てられている。

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