大跡の六社神社境内に、集中豪雨と伊勢湾台風時に浸水した水位を示した柱がある。集中豪雨のほうが浸水水位が高く、根古地で堤防が決壊し、水が一日かけて大跡まで上がってきた。大跡だけに輪中堤防(あほ除)があり、水の到達が遅らせることができた。あほ除は明暦2年(1656)に大跡輪中を金草川の水害から護るための輪中堤として築かれた。江戸時代より出水の度に除番が置かれたが、輪中に入水することはなく、その役目を果たすことがなかったので「あほ除」とよばれた。あほ除の建築者は不明である。
あほ除の一部に道を通した際、落垣(おちがき)を作った。落垣とは両脇に蛇柱(じゃばしら)と呼ばれる石柱を立て、増水時に水が輪中内に入らないよう蛇柱に掘り込んだ溝に厚さ7~8cmの板をはめこむためのものである。
1900年頃に大跡で水入りがあり、近隣住民が随陽寺に牛を避難させに来ていた。伊勢湾台風では稲はほぼ壊滅したが、残りはすべて手で刈り取った。用水は昔から変わらず金草川から得ている。
西岩道の長顕寺のすぐ西側の堤防が江戸時代に切れた。その位置に大きな池があったが、今はもう無い。
口ヶ島は慶安3年(1650)の大洪水の後現在の地に移った。それまでは大跡の東側にあった。口ヶ島八幡神社と長誓寺を一番高い所に建てた。
中心に東西に抜ける道を作り、その両脇に集落を形成した。中には大跡の東の方にいたが、慶安年間(1648-1651)に口ヶ島に移ってきた方もいる。
もとの口ヶ島があった大跡の辺りは今度インターになる。
西岩道の集落も水がつく為、より高い土地へと移動して現在の場所に集落が移っている。
伊勢湾台風の時は口ヶ島の家の前の道あたりはへその辺りまで水に浸かったが、玄関の前で水は止まった。
岩道で、以前より1m50cm高くした家ではまず水がつかないが、A氏が以前住んでいた高さの家では伊勢湾台風の時に畳の上35cm位まで水がきたのを覚えている。また、昭和34年の集中豪雨も忘れ難い。昭和19年に東南海地震があり、岩道180の周囲の家が倒壊した。倒壊した家の下から助けを求める声があちこちから聞こえた。広幡小学校の校庭にも亀裂が入った。
また、広幡の中の7地区に伊勢湾台風と集中豪雨の水位を示す標識と緯度・経度を示す標識が立てられている。

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表示位置はあほ除を示している。