白石村には石工が何人かいた。ヨハネス・デレーケが設計したといわれる滝谷の堰堤も、白石村の石工が石積みを組んだといわれている。石工の石組頭は藤塚久治氏の先祖の藤塚臣右衛門(ふじつか しんえもん)氏が務めた。その中の最後の石工の藤田禊(ふじた みそぎ)氏が柏尾谷の赤岩神社の奥の院の前の堰堤を築いたと伝えられている。

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養老バーベキュー(養老1173-5)から柏尾谷へ向かう所にある砂防工事跡は、「養老町の古道p.52」によれば、薩摩義士によるものである。津屋川に土砂を流さないために、災害の時は津屋川と反対側に土砂を落とすようになっていた。

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京ヶ脇には谷水と井戸のおかげで水を確保できるため人が住みついたのではないかと考えている。町道水が完備されるまでは、谷水で生活していた。谷からの水路を作ったり、竹に水を通したりしていたが、後に鉄管等で水を引いた。養老町が合併した後に、谷の上の方を水源とする谷水をタンクでろ過する簡易水道が設置された。現在も稼働し散水等に使用され、京ヶ脇が管理している。
A氏宅(京ヶ脇1417)の敷地内に井戸があり、その井戸で村の人々が水を賄っていた。平成15年頃から井戸が枯れ始めたが、直江谷が枯れた事が原因である。
玉泉堂が地ビールに着手しようと京ヶ脇の地下水の水質検査を行ったところ、鉄分の含有率が高く地ビールには向かないことが分かった。
終戦後、水のない時に京ヶ脇で伝染病が流行り、簡易水道の設置案が持ち上がった。昭和25~26年頃に谷水のろ過装置が設置された。
直江谷の水は京ヶ脇の地下を通っているが、京ヶ脇の住民が生活用水として使える程の水量はない。
京ヶ脇の住民は滝谷から浸透してくる水を使用していたのではないだろうか。

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竜泉寺の水取り場の洞窟の奥がどこまで続いているのかを知りたくて入った者がいるが、途中に石が落ちており、最後までたどり着けなかった。
行平谷と威徳谷の暗渠の水は2010年現在も使用されている。年中水が枯れることはない。竜泉寺の宿坊へ水を引くために暗渠を作ったのではないかと考えている。

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上方では昔、雨乞い神事が行われていた。琵琶湖を見通せるように弁天様の社が上方山の頂上にあり、松明を点けて山を登って行った。その松明の明かりは大垣からも見えたらしい。雨乞い神事の一部として田んぼでは男性が女装をして踊った。現在は行われていない。
弁天様は白鳥神社の脇社として上方山の山頂から下ろされた。平成になってから弁天様がお祀りしてあった場所には記念碑が建てられた。そこへは沢田から車で上がることができる。竜泉寺なども弁天様を山の頂上にお祀りしたと聞いたことがある。

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