寺倉氏は横屋の庄屋として部落の北の方に居住していた。そこに出入りする小作は、菊を作るように命じられていた。現在寺倉氏の屋敷は取り壊されており、存在しない。
横屋の平松不殺氏の下で働いていた田中又太郎の顕彰碑(大字横屋字下池地内)が、農地解放の恩恵を受けた人たちによって下池に建てられた。
横屋にはA氏が中心になって建てた徳万寺という寺院があった。
最初は寺ではなく会所であった。後に説教に歩いていた僧侶を住職として着任させ、地区からも寄付を募り徳万寺を建立したが、門徒はなく2000年頃に無住となった。
徳万寺は昔は道場と呼ばれていた。現在徳万寺の敷地内には横屋青少年集会所が建てられている。
浄徳寺(じょうとくじ)は養老町若宮42番地にある浄土真宗の寺である。明治42年(1909)に道場として創建され、昭和21年(1946)寺号浄徳寺となった。本尊は阿弥陀如来である。
浄徳寺では、春と秋に永代経、12月に報恩講を執り行う。寺総代は村の選挙で決め、3~4年で交代する。
有尾の堤防(大字有尾字稲川地内)は約70年かけて慶長5年(1600)に築造され、明治期に2回ほど決壊している。有尾から田まで延々と松が3000本ほど植えられていた。
有尾の堤防を築造するための土を横屋あたりから採掘した為、終戦頃までは堀田や池が多く作られた。土は神楽桟(かぐらさん)又は神楽巻(かぐらまき)という、現代でいうウインチを使って運ばれた。
有尾の堤防は7m80cm程の高さがあるが幅は狭い。堤防上は風が強く吹き抜けるので、夜に歩くのは怖いようなところだった。終戦前に松は切られ、地震で倒壊した家屋の修復や新築に使われた。