小倉の七つ屋の秋祭りでは準備のために笛・太鼓・鐘のお囃子の練習が10月から週一日で始められる。その奏法は先人の音を聞いたり指さばきを見たり、チィーヒョロなどと書いた譜面を見て覚え本番に備える。
祭りのときは白い提灯を両脇に2張り吊る。
山の神の更に1km程北の山の方に「七つ屋の神」の祠がある。七つ屋のある山は小倉山といい、村の山であり昔、村の人々は皆山の方に住んでいたらしく、そこに祠を作ったという人もいる。

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北小倉と南小倉で1つの郷社、八幡神社を祀っている。小倉の八幡神社の行事は元旦祭、記念祭、大祭、新嘗祭などである。小倉区民ほぼ全員が神社の行事に参加する。
八幡神社(小倉)の例祭は10月の第2日曜日に行われる。
祭の前日の午前7時頃から八幡神社の幟を立てる。場所と本数は決まっており、北小倉は大門の北側に2本、南小倉は大門の南側に2本である。
幟を立てた後、十二灯(じゅうにとう)と呼ばれる12張りの提灯を三段に吊り下げたものを北小倉・南小倉がそれぞれ作る。作り方は南小倉・北小倉ほぼ共通して以下の通りである。
1. 一昨年の竹組が残してあり、それから竹の長さと穴を開ける位置を写し取る。
穴を開ける際に竹の反り具合を見ながら開ける場所を決める。
2. 一本の長い竹に三本の短めの竹を通す。上段から下段にかけて徐々に長い竹を使うことで、全体的に二等辺三角形に見えるようにする。穴が大きすぎたら細い竹をつめて横棒が動かないように固定する。
※南小倉の十二灯では、穴を開けずに縄で竹を十字に組んでしばる。
3. 麻縄で縁をしばり、竹に提灯を吊るす。
祭の当日の18時に北・南小倉の集会所にそれぞれ笛を持って正装で集合する。18時30分に、班の大将と呼ばれる氏子総代が先頭に立ち、十二灯・17、18名から成る笛隊・太鼓1名・鐘1名・区民の順に八幡神社(小倉)まで行進する。この行進は江戸時代から続いているのではないかと思う。
八幡神社(小倉)前で北と南の小倉が合流し、社務長が挨拶した後でその年の主事側が先頭になり拝殿へと歩く。拝殿前まできたら社務長の合図で境内に配した提灯を一斉につける。その後十二灯は消し、直会の準備をする。準備の間、太鼓の保存会のメンバーが大小の太鼓を叩く。
太鼓には大太鼓とそれより少し小ぶりの太鼓がある。平成15年頃までは南北の小倉が一年毎に持ち回りで主事を務め、主事側が大太鼓を受け持った。
2010年現在、北小倉は130戸、南小倉は60数戸のため、北小倉が2年、南小倉が1年という3年サイクルで主事を交代している。2010年は北小倉が主事であった。
19時30分頃から21時頃まで神社本殿で直会が開かれる。終戦直後は男がおらず、4、5人で直会を行ったこともある。直会終了の締めは伊勢音頭を歌う。
直会が終わった後、神社の灯篭などの片付けをして、その年の新婚のお宅回りを始める。2010年は新婚のお宅が北小倉と南小倉がそれぞれ3軒ずつであった。また、依頼があれば新築のお宅にも回ることもある。
同行の70代ご夫婦によれば、昔は年間で北小倉地域内だけで16、7軒の新婚家庭があり、ほとんど一晩中かけて回り、太鼓にまたがって叩いていた人もいたとのことである。
お祝い回りが終わったら神社へ戻り、全て片付けて解散する。
後日、十二灯は集会所へ持ち帰り、解体して翌年まで取っておく。提灯は次年以降も使い、十二灯の竹は翌年作る時の採寸用になる。寸法を取り終わったら左義長で燃やすが、これを十二灯納めと呼んでいる。
八幡神社(小倉)は戦前、郷社小倉八幡神宮と呼ばれ神社の中では位が高かった。
祭りは年一回の秋祭りのみである。
八幡神社(小倉)の例祭には、昭和30年代は5、6人の香具師が来ていた。
祭礼費は1戸当たり2000円で、不足分は区費から出す。
八幡神社の本宮は「京都石清水八幡宮」が本社であり、そのお札が祀られている。
燈明にはお伊勢さんが祀ってある。
八幡神社には大木(御神木)があったが、4年程前に切り倒した。
戦後まもなくは、八幡神宮境内で素人芝居や演劇などがあった。また、露天商なども出て大変賑わったが最近は下火になってしまった。
昭和中頃までは神輿が村内を回ったが、車社会になり警察から道路使用の許可がおりなくなってからは、神輿は止めになった。
昭和50年頃までは、「山の神」・「八幡神社(小倉)」の両方に青年団が控えており祠の前で笛・太鼓・鐘でお囃子をしており夜遅くまで参拝客があり賑わっていた。締めは伊勢音頭を歌って終わる。
八幡神社(小倉)の宮総代は村の各班の宮議員の中から選ばれるが、主に長老がなることが多く、任期は決まっていない。
南小倉も北小倉も1班から4班まであり、宮当番が4年に1度回ってくる。10月の大祭と、翌年8月の燈明祭りの2つの行事が1回の当番の役目である。
八幡神社(小倉)には左右に脇社があり南側の「秋葉神社」は南小倉、北側の「御鍬神社」は北小倉の人が受け持ち管理をしている。この受け持ちは年ごとに代わることはない。
終戦後から始めた風習であるが、小倉の八幡神社の祭りの後で一年の間に結婚した長男の家へ行き、伊勢音頭と太鼓でお祝いをする。この慣習は今でも続いておリ、酒2升と肴を持って行く。かつては何故か地蔵を持っていった。南小倉の墓には6地蔵といわれるが7体あるのはこの慣習のせいでお地蔵があちこち移動されたせいかもしれないと思っている。その後踏査により7体の6地蔵は南小倉の墓地にはないことが判明した。観音寺には7体の石仏があるが、それとの混同かもしれない。

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横屋の住民の手次ぎ寺は南小倉の福勝寺、もしくは有尾の明楽寺である。福勝寺は元は横屋の北端にあった。福勝寺、明楽寺には村から総代と年行事を出して報恩講などを執り行っている。
平成22年度の養老町悉皆調査により、福勝寺に隣接するめぐみ保育園の昭和32年度卒園式の古写真の情報を得られた。

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伊勢湾台風後に、田地区を取り囲む輪中堤防を切り崩した土を使い、7億の予算で耕地整理を行った。その際堤防は6mから3mに切り下げられた。また、サンドポンプによって土砂を吸い上げ、堀田を埋めて耕地を整備した。完成記念碑が田地区内にある。
伊勢湾台風の時には田地区の集会場の30cm下まで水が来た。集会場は高くなっているが、集会所の南約50m辺りで海抜30cmである。
有尾では昭和34年の集中豪雨と伊勢湾台風の時にはほとんどの家が2階まで浸かった。津島街道の堤防は、海抜5mの高さがあるが、4.9mぐらいまで水が来た。災害後、五軒屋の人が志津の方に移ったり、横屋で家が流された1、2軒の人が一色に移って行った。差はわずかだが、集中豪雨の方が伊勢湾台風より水位の上がり方が大きかった。
横屋の地震被災後、家屋の倒壊を恐れて2階部分を低くした家屋が建てられたが伊勢湾台風により浸水した時には、2階に上げた物を窓から出せず、屋根を破って外に出した。
蔵に仏壇等を預けにくる方がいた。横屋のA家は家では津屋川の堤防と同じ高さに蔵が建てられていた。
小倉は、伊勢湾台風で田が全て水に浸かり、その年は全く収穫できなかった。根古地と有尾、田、横屋の辺りでは浸水した水位にあまり差が無かった。
有尾では伊勢湾台風の時に鴨居の上まで水が来ている家があった。
昭和34年の伊勢湾台風と同年8月の集中豪雨の頃に5、6軒が横屋から一色に移動した。

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田地区の庄屋は中村家だった。中村家では理由は不明であるが養老の説教所に仏壇や離れの座敷を寄付している。中村家は農地解放を機に田地区を離れたが、田の集会場の土地も寄付した。
庄屋中村家の影響もあり、田地区では養老の説教場に年行司がお金を集めて持って行っていたが、世代替わりにより相互の関係が希薄になり、部落でお金を集めて持って行くのはやめて、個人がそれぞれで納めるようになった。

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