南小倉のA家の菩提寺は禅宗の寒窓寺(海津市南濃町)である。A家で法事など、人が集まる時には必ず寒窓寺と観音寺(小倉、臨済宗妙心寺派)の2箇寺にお参りする。寒窓寺の門徒は現在21戸だが、一時期無住の時があった。
寒窓寺の本山は京都の妙心寺である。A氏は本山が催す花園会という会合に年1回出席している。前回は岐阜西教区の花園会が長良川国際会館で行われたが、会館が満員になるほどの盛況ぶりであった。普段は本山までは南濃からバスに乗り、何十人かでお参りに行く。
大般若経を読む会は、昔押越の村が大火に遭い、相次いで疫病が流行したため、厄除けを祈願するために慶応4年(1868)にできた会である。会は経典の虫干しも兼ねて10月の農繁期が終わった後に行っている。2011年現在でも続いており、隔年で行われている。以前は家を新築した人に会場の提供のお願いをしていたが、最近の住宅状況からお願いすることが難しくなり、公民館を使うようになっている。大般若経を読む会は高田にもあると聞いたことがある。
大般若経は禅宗のお坊さんを6人呼んで行う。
お坊さんが6人、住民側の参加者も6人、お経を読むのは合計12人で行う。大般若経は1人1箱に50巻×12人分で、計600巻ある。
大般若経は大きな箱に入れて保管している。大般若経を読む会は、回覧などで周知すると村中の人が来て100人以上集まる。
押越の八幡神社には金比羅様と神明様が祀られている。以前は大人6人が手をつないで囲めるような大きな杉の木が植わっていたが、伊勢湾台風の後、落雷に遭って傾き、危険なため切り倒された。
八幡神社が所蔵している貞治年代(1362-1367)の頃の美濃の刀匠、直江志津兼光の脇差は、町役場に勤められていた古川寿郎氏が50年ほど前に寄進されたものである。
押越全体の祭礼が9月末の土曜日に行われる。土曜日に行う理由は、雨だった場合に翌日曜に延期することができるためである。
押越の八幡神社と押中・押東の祭りが10月の第1日曜日に、八幡神社から分祀して大鍬神社を勧請した押西・押北の祭りが10月の第2日曜日に行われる。
各神社の祭りでは太鼓が叩かれる。
押越の八幡神社の社殿には絵馬がある。
土屋輝雄(つちや てるお)氏は養老町高田の画家である。母代りのおばが写真屋を営んでおり、様々な画家が訪れていたのでそれが土屋輝雄氏の糧になったのではないかと思う。
土屋輝雄氏は、体のハンディキャップを乗り越えて、青龍社(せいりゅうしゃ)の川端龍子(かわばた りゅうし)氏の画壇の弟子となった。
昭和10年代には土屋輝雄氏がよく民家の写生に来ていた。来るたびについて歩いて、描いている所を見ていた。A氏は中学校に入ると、学校帰りに画家の土屋輝雄氏から絵を習っていた。
土屋輝雄氏は、風景や、にわとりなどの鳥の写生をよくしていた。家には鳥のゲージがあり、何羽か飼っていた。A氏の家の東の道を北に行って、右に曲がったところにある正面の家をよく描いていた。今では建て替わってしまい、昔の風情は残っていない。後にケヤキの木、手前左側に藁屋の家が描かれた風景という作品は、中山道広重美術館で行われた土屋輝雄展でも展示されていた。
土屋輝雄氏のご子息は土屋禮一(つちや れいいち)氏である。中央公民館にある絵(「黙」)は、土屋禮一氏の絵であるが、描かれている場所は不明である。禮一氏は、養老や武蔵野など故郷の絵を描くことが多い。沼地に空が映り、沼の中に雲が飛んでいるイメージなどの絵がある。以前、NHKの番組で、禮一氏とNHKの女性アナウンサーの頼近(よりちか)氏と対談があった。養老町の金草川(かなくさがわ)で話しているシーンがあったが、口ヶ島の北の河川敷の、田んぼや畑がある所で、東を向いて、木や川を眺めながらの対談であった。故郷への憧憬の気持ちが表れていたのではないだろうか。
ご子息の禮一氏からは土屋輝雄氏の指導は、厳しかったと聞いているが、A氏が中学生で絵を習いに行っている頃は優しかった。授業後、宿題を持って土屋先生の本宅へ行き、教えてもらった。
高田の町家に住んでいる同級生などは、小さい頃から土屋輝雄氏の絵の教室で習っていた。A氏の年代、昭和10年代後半から20年代にかけて、高田近辺の人はほとんど輝雄氏に絵を習いに行っていた。ただし当時は、月謝の概念はなかった。
輝雄氏の生誕の地は、現在養老町高田にある大垣信用金庫の駐車場になっている。奥まったところに家屋、その手前に鶏の鳥かごがあった。今は、その頃の面影はない。
元々土屋家は財産家で、造り酒屋もやっていた。土屋氏の親戚関係かどうかは不明だが、現在の村瀬商店の辺りに、土屋醸造という醸造会社があった。
財産家だったからこそ、子どもの頃から絵を描くことが出来たのであろう。また、輝雄氏の奥様、志うさんも素晴らしい方で、精神的にも、経済的にも土屋氏を支えたそうである。自分の着物を質に入れて、画布を買ったという話を聞いたことがある。
A氏は絵が小さい頃から好きであった。防空ずきんを肩にかけて、輝雄氏のスケッチについて行った際に、スケッチしてもらったこともあった。その絵はどうなったかは分からない。輝雄氏の絵は、息子の禮一氏によって、岐阜県の美術館に寄贈されているものも多い。
輝雄氏の絵は、養老小学校の校長室にも飾ってある。A氏が校長の時に禮一氏と志うさんが調べに来たことがある。また、高田中学校の会議室にもある。高田を中心に残っている絵がたくさんあるが、これは、志うさんが生活の為に売りに歩いたからかもしれない。周辺の人も協力の為に購入したのかもしれない。
輝雄氏は養老から大垣まで幅広く移動していたが、当時は、写生に行く時は、ガタガタの道を改造自転車で移動していた。体が不自由な中、奮闘している姿を見た住民は、土屋氏を素晴らしい先生であると尊敬していたのではないだろうか。
押越在住のA氏は、絵が好きなご友人が土屋輝雄氏の所へ絵の勉強に行っていたので、A氏も一緒に遊びに行き、土屋氏によく話をしてもらった。土屋輝雄氏は多作な人ではない。色白で物静か、口数の少ない印象だった。
土屋氏は足が悪かったので、家で飼っていた鳥を写生していた。中庭と土間があり、奥行きのある大きな家の真ん中で鳥を飼っていた。鷹もいた。鶏を生き生きと描いた「金鶏銀鶏」で日展に入選された。日展に入選されたときは、町で話題になった。
土屋氏は西福寺に何度か写生に来られていた。鐘撞堂を現場で写生して書いていた。