土屋輝雄(つちや てるお)氏は養老町高田の画家である。母代りのおばが写真屋を営んでおり、様々な画家が訪れていたのでそれが土屋輝雄氏の糧になったのではないかと思う。
土屋輝雄氏は、体のハンディキャップを乗り越えて、青龍社(せいりゅうしゃ)の川端龍子(かわばた りゅうし)氏の画壇の弟子となった。
昭和10年代には土屋輝雄氏がよく民家の写生に来ていた。来るたびについて歩いて、描いている所を見ていた。A氏は中学校に入ると、学校帰りに画家の土屋輝雄氏から絵を習っていた。
土屋輝雄氏は、風景や、にわとりなどの鳥の写生をよくしていた。家には鳥のゲージがあり、何羽か飼っていた。A氏の家の東の道を北に行って、右に曲がったところにある正面の家をよく描いていた。今では建て替わってしまい、昔の風情は残っていない。後にケヤキの木、手前左側に藁屋の家が描かれた風景という作品は、中山道広重美術館で行われた土屋輝雄展でも展示されていた。
土屋輝雄氏のご子息は土屋禮一(つちや れいいち)氏である。中央公民館にある絵(「黙」)は、土屋禮一氏の絵であるが、描かれている場所は不明である。禮一氏は、養老や武蔵野など故郷の絵を描くことが多い。沼地に空が映り、沼の中に雲が飛んでいるイメージなどの絵がある。以前、NHKの番組で、禮一氏とNHKの女性アナウンサーの頼近(よりちか)氏と対談があった。養老町の金草川(かなくさがわ)で話しているシーンがあったが、口ヶ島の北の河川敷の、田んぼや畑がある所で、東を向いて、木や川を眺めながらの対談であった。故郷への憧憬の気持ちが表れていたのではないだろうか。
ご子息の禮一氏からは土屋輝雄氏の指導は、厳しかったと聞いているが、A氏が中学生で絵を習いに行っている頃は優しかった。授業後、宿題を持って土屋先生の本宅へ行き、教えてもらった。
高田の町家に住んでいる同級生などは、小さい頃から土屋輝雄氏の絵の教室で習っていた。A氏の年代、昭和10年代後半から20年代にかけて、高田近辺の人はほとんど輝雄氏に絵を習いに行っていた。ただし当時は、月謝の概念はなかった。
輝雄氏の生誕の地は、現在養老町高田にある大垣信用金庫の駐車場になっている。奥まったところに家屋、その手前に鶏の鳥かごがあった。今は、その頃の面影はない。
元々土屋家は財産家で、造り酒屋もやっていた。土屋氏の親戚関係かどうかは不明だが、現在の村瀬商店の辺りに、土屋醸造という醸造会社があった。
財産家だったからこそ、子どもの頃から絵を描くことが出来たのであろう。また、輝雄氏の奥様、志うさんも素晴らしい方で、精神的にも、経済的にも土屋氏を支えたそうである。自分の着物を質に入れて、画布を買ったという話を聞いたことがある。
A氏は絵が小さい頃から好きであった。防空ずきんを肩にかけて、輝雄氏のスケッチについて行った際に、スケッチしてもらったこともあった。その絵はどうなったかは分からない。輝雄氏の絵は、息子の禮一氏によって、岐阜県の美術館に寄贈されているものも多い。
輝雄氏の絵は、養老小学校の校長室にも飾ってある。A氏が校長の時に禮一氏と志うさんが調べに来たことがある。また、高田中学校の会議室にもある。高田を中心に残っている絵がたくさんあるが、これは、志うさんが生活の為に売りに歩いたからかもしれない。周辺の人も協力の為に購入したのかもしれない。
輝雄氏は養老から大垣まで幅広く移動していたが、当時は、写生に行く時は、ガタガタの道を改造自転車で移動していた。体が不自由な中、奮闘している姿を見た住民は、土屋氏を素晴らしい先生であると尊敬していたのではないだろうか。
押越在住のA氏は、絵が好きなご友人が土屋輝雄氏の所へ絵の勉強に行っていたので、A氏も一緒に遊びに行き、土屋氏によく話をしてもらった。土屋輝雄氏は多作な人ではない。色白で物静か、口数の少ない印象だった。
土屋氏は足が悪かったので、家で飼っていた鳥を写生していた。中庭と土間があり、奥行きのある大きな家の真ん中で鳥を飼っていた。鷹もいた。鶏を生き生きと描いた「金鶏銀鶏」で日展に入選された。日展に入選されたときは、町で話題になった。
土屋氏は西福寺に何度か写生に来られていた。鐘撞堂を現場で写生して書いていた。

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青龍社は、昭和4年(1929)に日本画家の川端龍子が中心となって結成した、昭和期の日本画団体である。養老町小幡地区の祖父江で土屋氏によって描かれた、どっぺの上でかわせみが魚を狙っている絵が岐阜県の美術館にある。祖父江の段海(だんがい)辺りで、昔漁が行われていた。池のほとりに魚かごを並べて生簀がわりにしていた所へ、カワセミが毎朝魚を狙いに来る。その風景を描いた絵であった。祖父江の人によると、祖父江の段海に魚を取る漁師の家があって、土屋氏はカワセミの絵をかくために、一ヶ月ほど毎日通っていた。表示位置は元土屋家を示している。