押越では行政上分けられている地区と、祭りなどを行う時の地域の組を使い分けており、地域で分ける組のことを屋敷と呼んでいる。伊勢参りは現在も行っているが、屋敷(=組)によって行う日や時間が多少異なる。12月31日もしくは1月1日に出発して、2日もしくは3日に押越に戻り、公民館で2時間程度の会合を開く。会合の内容としては区内の親睦や年間計画を立てる。代参者を上座に据え、前年代参に行った人が給仕を行う。代参に行く順番はくじで決める。屋敷によっては二万円ほど出して御神楽をしてもらったり、公民館ではなく魚善で会合を行うなど細かい点で違いがある。
昭和はじめ頃までは馬に房を付け、伊勢参りの一行を石畑まで迎えに行ったと聞いた。押越は大神宮を祀っているので、伊勢参りを辞めることはできない。
虫送りは現在は行っていないが、昭和40年ごろまではやっていた。
左義長は行っていないが、粥占いは押越八幡神社で毎年1月中旬に行っている。粥には小豆も入れる。

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押越にはお地蔵さんがたくさん祀られている。
ドラッグストアイシイ養老店(押越670-1)の東、火の見櫓のそば、A氏(押越362)地内、B氏(押越335-1)の家の前など。
ドラッグユタカ(押越1237-4)の近くの墓場に六地蔵がある。六地蔵の小屋は、一度火事があり、鉄筋で作り直した。六地蔵の真ん中には阿弥陀如来と六字名号の石碑があるので、合わせて8体である。六地蔵は地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道のお守りである。
8月下旬の地蔵盆には各地域のお地蔵様がそれぞれの地域の住民によりお祀りされる。

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新川には蛍がおり、昭和30年代はよく泳いだ。東へ行くほど深くなり、(ゆり)の位置を目印に、学年によって遊べる区画を子供たちで決めていた。

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島田の瀬古割は、北井口、井口、井口中組と別れていた。
島田八幡神社が位置する所の小字は才勝(さいかち)である。
島田村本郷はかつて養老の中心地だった。島田住民は本郷から移転してきて、百姓が現在の島田地内に残り、庄屋は高田の町のほうへ移住した。
川島姓は島田出身である。島田には上石津町の一之瀬から移住してきた人もいる。
島田の庄屋は西脇家であった。永祿9年(1566)の牧田川の大洪水により、河筋が変わった。この時に庄屋西脇家の土地を牧田川が横切った。
島田に西美濃厚生病院の前身、高田町立病院があった。

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島田の用水は五日市川や湧水によりまかなわれていた。
新川は1番(ゆり・突堤のこと)から4番、そして横除(よこよげ)まで水を流しており、1番のみ現存している。江戸時代に新川の定杭があった。
昭和以降操業している高田排水機場がなかった頃は、字丑墳(うしづか)、字松の木、字楽野の辺りの水田を遊水地として洪水時の調整を行っていた。

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