新川には蛍がおり、昭和30年代はよく泳いだ。東へ行くほど深くなり、(ゆり)の位置を目印に、学年によって遊べる区画を子供たちで決めていた。

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島田の瀬古割は、北井口、井口、井口中組と別れていた。
島田八幡神社が位置する所の小字は才勝(さいかち)である。
島田村本郷はかつて養老の中心地だった。島田住民は本郷から移転してきて、百姓が現在の島田地内に残り、庄屋は高田の町のほうへ移住した。
川島姓は島田出身である。島田には上石津町の一之瀬から移住してきた人もいる。
島田の庄屋は西脇家であった。永祿9年(1566)の牧田川の大洪水により、河筋が変わった。この時に庄屋西脇家の土地を牧田川が横切った。
島田に西美濃厚生病院の前身、高田町立病院があった。

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島田の用水は五日市川や湧水によりまかなわれていた。
新川は1番(ゆり・突堤のこと)から4番、そして横除(よこよげ)まで水を流しており、1番のみ現存している。江戸時代に新川の定杭があった。
昭和以降操業している高田排水機場がなかった頃は、字丑墳(うしづか)、字松の木、字楽野の辺りの水田を遊水地として洪水時の調整を行っていた。

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昭和34年8月13日の集中豪雨で堤防が決壊し、ミズノ養老工場の下にあった家は土砂に埋まった。現在、決壊部分は拡張されてミズノ養老工場の駐車場になっている。
昔は島田住民全員が水防団員を努めたが、2011年現在は15人程である。消防員終了後5~6年のうちに水防団に加入、60歳で定年する。
島田が管轄する用水、五日市川は高田中学校のそばから五日市落江排水樋門(いつかいちおちえはいすいひもん)までと、牧田川は五日市落江排水樋門から烏江の西の山の神があったあたりまでである。なお、この山の神は輪中堤の上にあったが、現存せず、山の神という名前だけが残っている。地名は字丑墳(うしづか)である。
牧田川の北側の直江地内に島田の飛地があるが、牧田川改修の名残ではないかと思う。
喰違堤牧田川の水位が上がった時に金草川に水を落とすためのもので、金草川から北の範囲には島田輪中があるため、島田には水が入ってこないようになっている。

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島田の伊勢参りは昭和30年頃まで行われていた。昔は金草川沿いの湊跡、字楽地から船で参った。この地は、中世には楽市楽座が開かれていた場所であると伝えられている。
島田の痘瘡送りは昭和30年代頃まで行われていた。
島田の虫送りは昭和34年以前まで誘蛾灯(ゆうがとう)を灯して行われていた。

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