第二次世界大戦の終戦から2年間、三神町で作ったスポンジの毬をリュックサックいっぱいに詰め込んで、汽車に乗り京都や大阪に売りに行った。京都駅には取り締まりの警官がいたため、山科付近で窓から投げ捨てた。当時の鉄道の状況は、大垣に戻ってくる切符は一週間に一度しか売られないため、それまでリュックサックを枕にして駅で寝て待った。商品を売りつくして手ぶらで戻ってきた。ヤミ米は養老の場合1俵8円から10円で売られており、30円あれば家が一軒建った時代であった。ヤミ米を運ぶには座席の下の隙間に入れて隠して運んだ。警官の立ち入り検査で捕まるわけにはいかないため、自分のものではないふりをした。

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多芸小学校は、昭和22年(1947年) 、多芸尋常小学校から養老郡多芸村立多芸小学校と改称され、校舎が増築された。直江、飯積、金屋の地域の人々が共同で小谷山の木を切り出して校舎を建てた。現在は敷地の半分は住宅地になっている。
多芸高等尋常小学校の校章には鏡、玉、剣の三種の神器のデザインが使われている。また、校舎に使われていた鬼瓦が保管されている。

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西光寺の跡付近に旧多芸橋、さらに南に旧高田橋があり、2本の橋を渡ることによって高田に入れた。旧高田橋の近くには今も燈明が建っている。
大正天皇が皇太子の頃、高田小学校に巡幸されたときにも旧多芸橋から旧高田橋を通り、千歳楼に宿泊された。
牧田川を旧高田橋の近くの燈明から南へ渡る船があった。江戸時代末期頃まで運行されていたであろうと考えている。

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飯積の干拓地は元、小字で小物成(こものなり)と呼ばれたように、作物が採れない土地であった。米以外の野菜で年貢を納めた。河間田(がまだ)という小字名もある。
飯積の干拓は、現在の大垣養老高校の北、飯積字小物成地区から土を運んだ。

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明治の頃までは多芸橋は大きな橋ではなく、木造の小さな橋であった。

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