飯積の干拓地は元、小字で小物成(こものなり)と呼ばれたように、作物が採れない土地であった。米以外の野菜で年貢を納めた。河間田(がまだ)という小字名もある。
飯積の干拓は、現在の大垣養老高校の北、飯積字小物成地区から土を運んだ。
明治の頃までは多芸橋は大きな橋ではなく、木造の小さな橋であった。
養老山の土地を白石、押越、島田、直江で争い、代官所で裁判が行われた。
養老山に直江の土地があり、その部分は小谷山(おたにやま)と呼ばれる。小谷山では、薪、牛馬の餌になる草などを採った。直江には鍛冶職人が多く住んでいたといわれ、燃料となる薪が直江の山から取れるのは好都合であった。資源の豊富な山であるが故に天領となった。
江戸時代から小谷山は直江村の土地となった。直江住民60軒分の名義だったが、平成20年に春日神社の名義に変更した。
小谷山の谷の北に直江谷という、段々畑がある。小谷山の広さは五十四町歩あり、直江の春日神社の氏子66軒で組ごとに世話をしている。2011年現在も年に1回、9月の第1日曜日に小谷山感謝祭が行われている。柏尾より南は中世以降の山の所有に関して、白石、押越、島田、京ヶ脇も養老山に村の土地を所有している。