大場では田植え時期になるとお寺が10日間ほど幼児を預かった。西運寺には滑り台があって楽しみのひとつだった。学校では農繁期休暇があり、子供も田植えを手伝った。

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瑞穂東では昭和34(1959)年に干拓事業の為、揖斐川にサンドポンプを積載した船が停泊していた。伊勢湾台風前の8月の集中豪雨で、その船のロープが切れた時に、サンドポンプごと根古地の若松屋の辺りに流れて行ったのを目撃した。
昭和34年の集中豪雨の時、A氏は32、3歳で、池辺小学校で宿直をしていた。伊勢湾台風に比べると集中豪雨の方が凄かった。池辺側の堤防が切れた時、川の反対側の海津郡今尾の人々が万歳しているのが見えた。その後、10分も経たない内に今尾消防団が池辺小学校に手伝いにきて、重要書類を2階へ上げた。その際に訓練が行きとどいた様子を見て感心した。
下笠で上げ舟を使ったのは集中豪雨と伊勢湾台風の時である。それ以外は、例えば昭和12年の雨の時などでも下ろしはしていたが、結局使うことはなかった。
A氏のおじさんは、写真が好きで沢山あったが、水害の時に水がかかって駄目になった。しかし仏壇だけは畳を積んで上げていたので、どうにか助かった。
A氏のご祖父が分家する前は堤防の上に水屋を作り、1、2年住んでいた。その後、屋敷を作り分家した。その屋敷は、集中豪雨の時に土台すらも水がつかなかった。しかし明治29(1896)年の水害では、土台の上の床上にあった火鉢に船の舳先があたって割れたという。床まで1メートル、床上1メートル浸水したと考えると、集中豪雨の時より2メートルほど高かったのではないだろうか。堤防上の道だけ見えて、あとは一面水に浸かったとご祖父から聞かれた。後にA氏の家は、集中豪雨の時の水の高さまで土台を上げた。
水害時に船に乗って難を逃れたB氏の家は、土台の上まで水が来て土間が水浸しになったが、床上は大丈夫だったそうである。

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養老、高田道道標は、明治13年4月に建立された。旧養老街道にあったものを移動したものである。養老と御井神社への道しるべだった。現在、道標の下方部分は埋まっている。「すぐ 養老 高田 道(以下不明)」「すぐ大垣(垣の字の半分以下不明)」「右 御井神社 せきが原(以下不明)」とある。

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養老町の南直江の旧牧田川堤防(西光寺跡南)に地蔵がある。
江戸時代に大水で流れてきた地蔵を祀っているという話がある。地蔵祭り(8月の地蔵盆と同日)に、昔は西光寺の方にお経をあげてもらっていたが、平成24年現在はご近所の方にお菓子を配っているのみ。
この地蔵には以下のような言い伝えが残っている。
むかし、直江にたいそう忠義者の番頭さんがいた。ある日、番頭さんが近くの蛇池で草を刈っていると、間違って草と一緒に白蛇の頭を切り落としてしまった。あわてた番頭さんは手を合わせ、蛇に何度も謝った。しかし、急にのどが渇き、水が飲みたくてたまらなくなった。番頭さんは意識が薄れていく中で、水を飲もうとした蛇を殺してしまったことに気づき、蛇を殺してしまったことを悔やんだが、そのまま亡くなってしまった。そして、このことを知り、番頭さんを哀れんだ主人が、この場所に地蔵をたてたらしい。
この地蔵の場所は江戸時代から変わっておらず、この地域では「首から上の部分を健康に導くお地蔵さま」と伝えられている。
お地蔵さんの台座の下の四角い石に「寛政十一未年 法名釈暁圓 五月十九日」という銘があり、この暁圓という人が昔話の番頭さんかも知れない。

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養老町多芸東部の直江には蓮光寺がある。未調査のため、詳細は不明である。

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