養老町には昔下池(しもいけ)と呼ばれた大きな池があった。下池は200町歩(約198.3ha)あって残っていれば岐阜県で最大の池であった。
養老町史の中に下池で1年でウナギが1000貫目(約3750kg)獲れたという資料がある。
駒野新田の庄屋国枝彦太郎という人が江戸時代中期に一番最初に下池干拓に手を付けたという記録がある。しかし、国枝彦太郎氏の干拓は失敗に終わった。
大昔は釜段の才勝まで湖だったが、17世紀後半、尾張藩士森半入(もりはんにゅう)らにより、下池干拓が成された。下池輪中が作られた後、輪中を半分に分ける背割(中除・なかよげ)が作られ、中除を中心に東の平(ひら)・西の平(ひら)に分けられた。中除を基準に東側が深さ約30cm、西側が約60cmの遊水池にしてあった。多大な費用がかかった為、森半入は自害した。
才勝に干拓の成功を祈念して碑が建てられた。

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大場と大場新田には八幡神社2社、西運寺、大神宮、地蔵堂がある。大場の八幡神社は2回位置が変わっている。大イチョウのあった元宮跡が近くにある。石の碑があるが、伊勢湾台風の年に根古地が建てたものである。大場の八幡神社の移転の理由や経緯は不明である。
大場の八幡神社は笠松郡代の小笠原氏に寄付してもらい、最終的に高い所に落ち着いた。
2010年現在根古地にある明圓寺は、元は天台宗で大場にあったものが水害の関係で数回移転し、浄土真宗に改宗して、最終的に根古地に落ち着いた。

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大場では田植え時期になるとお寺が10日間ほど幼児を預かった。西運寺には滑り台があって楽しみのひとつだった。学校では農繁期休暇があり、子供も田植えを手伝った。

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瑞穂東では昭和34(1959)年に干拓事業の為、揖斐川にサンドポンプを積載した船が停泊していた。伊勢湾台風前の8月の集中豪雨で、その船のロープが切れた時に、サンドポンプごと根古地の若松屋の辺りに流れて行ったのを目撃した。
昭和34年の集中豪雨の時、A氏は32、3歳で、池辺小学校で宿直をしていた。伊勢湾台風に比べると集中豪雨の方が凄かった。池辺側の堤防が切れた時、川の反対側の海津郡今尾の人々が万歳しているのが見えた。その後、10分も経たない内に今尾消防団が池辺小学校に手伝いにきて、重要書類を2階へ上げた。その際に訓練が行きとどいた様子を見て感心した。
下笠で上げ舟を使ったのは集中豪雨と伊勢湾台風の時である。それ以外は、例えば昭和12年の雨の時などでも下ろしはしていたが、結局使うことはなかった。
A氏のおじさんは、写真が好きで沢山あったが、水害の時に水がかかって駄目になった。しかし仏壇だけは畳を積んで上げていたので、どうにか助かった。
A氏のご祖父が分家する前は堤防の上に水屋を作り、1、2年住んでいた。その後、屋敷を作り分家した。その屋敷は、集中豪雨の時に土台すらも水がつかなかった。しかし明治29(1896)年の水害では、土台の上の床上にあった火鉢に船の舳先があたって割れたという。床まで1メートル、床上1メートル浸水したと考えると、集中豪雨の時より2メートルほど高かったのではないだろうか。堤防上の道だけ見えて、あとは一面水に浸かったとご祖父から聞かれた。後にA氏の家は、集中豪雨の時の水の高さまで土台を上げた。
水害時に船に乗って難を逃れたB氏の家は、土台の上まで水が来て土間が水浸しになったが、床上は大丈夫だったそうである。

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養老、高田道道標は、明治13年4月に建立された。旧養老街道にあったものを移動したものである。養老と御井神社への道しるべだった。現在、道標の下方部分は埋まっている。「すぐ 養老 高田 道(以下不明)」「すぐ大垣(垣の字の半分以下不明)」「右 御井神社 せきが原(以下不明)」とある。

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