明治初期にはご飯さえ食べれれば垣根や植木の手入れをやりに来てくれる人はいた。
大場では夏の稲の植え付けがすむと蚕の世話をし、合間に川の藻を取った。藻は竹2本で巻き取って舟一杯に積み、田や畑に入れて肥料にした。また、田舎ではトイレットペーパーの代わりにした。年に2~3回蚕から繭になるまで育てた。
大場で麦・稗・粟を作って食べていた地域もあった。
大場の池で魚を採って日銭を稼ぐ人もいた。投網漁や、さで網と呼ばれる袋状の網の口の部分を三角形や四角形の枠に装着し、柄をつけた網漁具で行う漁の名人もいた。ドビンというカラス貝の大きな貝類を採ったり、細池の菱を取った。菱をゆでて食べると栗のような味がした。今は戦争中に毛皮を取るために飼われていたヌートリアが繁殖して全て食い荒らしてしまう。
新田側の燈明から北西が桑畑だった。現在の町道今尾-小倉線の北側にあたる。その畑の土は伊勢湾台風で土砂が流れこんで1m近く田んぼが埋まってしまったために新田の堀田を埋めた時、その上の置き土として使ったものである。
大場新田の人はほとんど養蚕をしており、そのおかげで豊かになった。
大場の辺りでは舟が一世帯に3艘はあり、大百姓の所には牛舟もあった。
大場の地名の由来は、和名類聚抄が938年に編纂された時にはすでに「大庭=おおば」という記述が見えるので、それ以前から大場は拓けていたと考えている。なお、大庭はその後大葉となり、2010年現在の大場表記になったのは300年ほど前である。明治20年に大場村と有尾新田と根古地新田から成る大場新田村が合併し、大場村となった。
大場の虫送りは、7月の終わり頃に、昭和20年頃まで行われていた。
昔は、地主の家が持ち回りで場所を提供し、酒と麩のつまみで虫送り行事を行った。藁と竹で10数mの大松明を作って、虫を退治するのが目的だが、行事の起こりは虫に乗り移った平実盛の霊を西の京へ送り返そうとしたことからである。
大場では、誘蛾灯を田植えの前の苗代に灯しておいて蛾を退治した。
大場では2010年現在も伊勢参りが行われている。代参者が朝から伊勢へ詣で、午後5時に燈明橋で帰ってきた代参者を出迎え、大場の南宮大社に御札を納めた後に八幡神社の社務所でも御札が納められ、会食が開かれる。