養老神社の祭神は、養老明神、元正天皇、聖武天皇、菅原道真である。永正元年(1504)正月に菅原道真公を合祀してから養老天神宮又は菊水天満宮ともいう。境内社は金刀比羅社、山之神社、御嶽社、稲荷社、御鍬社である。養老神社境内からは、岐阜県指定有形文化財(考古資料)である養老神社経塚出土品8点を始め、和鏡3面、刀子の破片・火打鎌3本、外甕無釉瓶子1が出土した。
京ヶ脇は養老神社との関わりはあまりないが、近隣ということで寄付などは協力している。
養老神社の創立は永正元年(1504)の菅原道真公の合祀から更に遡り、明応年間(1492~1501)以降に白石の村が形成され落ち着いた頃ではないかと考えている。
養老神社から出土した経筒は住民が高林から白石に移った際に一緒に持ってきたものではないかと考えられている。
養老神社の祭神にはキクルヒメ(菊理媛神(ククリヒメノカミ)のことか)もしくは、源丞内も奉られているという意見もあったが定かではない。また養老神社という名称は、菊水天満宮、菊水天神宮などと呼ばれていた頃もあった。
養老神社に元正天皇、聖武天皇を合祀したのは昭和になってからであろうと考えている。養老神社のお祭りは、昭和10年代は現在の様式では執り行われていなかった。
昔は神輿はなくカラヒキと呼ばれる神籬(ひもろぎ)台を担いで奉納をしていたと思うが、明確には覚えていない。神輿の奉納が始まったのは、戦後であると思う。
神輿は昭和の初期に長浜(滋賀県)より納造され、当初屋根紋は祭神である菅原道真の梅紋が装飾されていたが、現在は菊紋に改められた。昭和20年代に養老サイダーの社長の寄進により修繕されている。
普段神輿は白石の昔の社務所の中にある。昔は、養老神社の急な石段を神輿を担いで上がった。
養老神社から白石の行宮神社までは神輿のお練りを行った。その後、山の上まで上がり、神事の後1尺8寸(約55cm)の大きさの提灯108張りを点けて御鍬神社の裏手のけもの道に松明を持って下りてきたが、やがて周辺の樹木が大きくなり、下から提灯の明かりが見えなくなった。現在は林道の2の段の中継所までしか上がらない。祭に参加する人数も提灯の数も少なくなった。
養老神社の祭りは、白石と養老公園で行っている。総代は6名で、養老公園2名、白石4名である。神社の財産はさほどなく、養老神社の土地と、白石村の薬師如来のそばの一反程の土地である。
養老神社の社標は元々神社の鳥居脇にはなかった。昭和10年代(1935~1944)に養老神社の鳥居を立て替えた頃に、養老の駅前に建っていたものを移したと聞いている、という話があったが、別の写真によれば養老神社の社標は鳥居脇に間違いなく建っている。現在の養老神社の拝殿にある社標だという意見もあるが、何故養老駅前に建っていたのかという問題が解決していない。

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養老説教場は、養老町養老公園内にある浄土真宗の説教場である。説教上の設置計画は当時の岐阜県令小崎利準に支援されたこともあり、設置にむけての募金が美濃国全域にわたって行われ、多額の浄財が集ったといわれる。
養老説教場には現在の海津市である高須藩から移築された御殿があり、高僧等を招く為に作られた。
養老説教場は養老郡の所有だが、土地は県の所有である。養老町内の浄土真宗の寺院が持ち回りで管理している。
平成22年度の報恩講は12月15・16・17日の3日間勤めた。養老説教場の報恩講にはのべ100名程がお参りする。
平成22年度の養老説教場主管代務者は禿憲正(かむろ けんしょう)氏、祖父江の楽邦寺住職である。
法話は鷹橋賢由(たかはし けんゆう)氏(池田町片山)である。
最終日の17日は御満席と言われ、3日間のうちで最も多くの方がお参りする為、バスを手配して少しでも多くの方に御参詣頂けるように配慮している。しかし、高齢化により参詣者は減少傾向にある。
17日の日程は、10:00から日中(にっちゅう)といわれる勤行(ごんきょう)の後、僧侶による法話が1時間程あり、昼にはお斎がふるまわれる。午後は、逮夜勤め(たいやづとめ)といい参詣者全員で正信偈(しょうしんげ)を唱える。
養老説教場は専従の住職がいない為、お世話方によりお華束(けぞく)などが整えられる。また募財にも回って養老説教場の維持管理に尽力している。
養老説教場では、12月に報恩講、1月に修正会、3月に永代経と追弔会、8月にお盆と夏御文(げのおふみ)と永代経、9月にお彼岸が勤められる。寺院の一年の暦は報恩講に始まり、報恩講に終わると言ってもよいほど、報恩講は真宗寺院にとっては重要な行事である。養老説教場では月命日には役員が集まり勉強会が行われる。毎月何らかの行事を行う寺院は珍しいのではないか。
報恩講での特徴的な荘厳(しょうごん)は、御内陣に牡丹の紋の幕が掛けられ、ピンク・緑に色づけされた餅を積み重ねたお華束が置かれる。その他に、親鸞聖人の伝絵(でんね)が掛けられ、僧侶が勤行をする際の登高座(とうこうざ)が置かれて厳かな雰囲気となる。
養老説教場から養老の滝へ行く道は、偕楽社開設当時に養老説教場の信者の人々が自費で作った。
その道中に桜を植えたのが渋谷代衛氏である。

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長井家から氏家(うじいえ)家に昔養子を出した。氏家重遠(うじいえ しげとお)か重行(しげゆき)の時代かと思われるが、詳細は不明である。
氏家廣雄氏の日記によれば、明治24年(1891)に西国33ヶ所巡りの途中で林正寺(りんしょうじ、上石津町牧田3772に立ち寄り、沢田村の渡船場から人に見送られて出発したとの記述がある。

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山幡姓は稲葉姓に由来を持つが、信長に狙われるのを避けるため山幡姓に改姓している。若宮神社の祠が小さいのも目立たないようにしたことに起因するのではないか。山幡家は若宮神社の氏子であると同時に、大桑神社の氏子でもある。山幡一族の土地は広大で、他の土地を通らないで高田村まで行けたと伝えられている。

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竜泉寺村字威徳山(いとくやま)山中の坂尻谷付近、中間水槽下あたりに盗掘された古墳の跡がある。

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