高田に東雲座(しののめざ)という、枡席になっている芝居小屋があった。芝居小屋では、浅田光代の女剣劇を観た。そこで映画も上映していたかもしれないが、芝居が多かったように思う。
飯田の相順寺に飯田在住の門徒が少ないことなどから、飯田は地域としてひと纏まりになっていないように思える。
歯医者さんや油屋さんなど、飯田から出て行く人も多くいた。最近、上石津から移ってきた人もいる。
飯田は比較的高い場所にあるので、水がつくことはない。祖父江では、明治29年(1896年)の集中豪雨時に、屋根まで水がついたそうである。それくらい標高が違う。養老町の中では比較的安全な場所であるのに、昔から人の出入りが多い理由は分からない。最近特に、飯田にはアパートや新築の住宅が多いと感じる。
養北小学校の西側のすぐそばに小畑村役場と農協があった。農協は昭和年代頃は道路の南側、字丸の内にある森川パーマ屋さんの場所にあったが、火災があって移動した。
大正4年(1915)に養老鉄道の横転事故が古市石油(石畑1494-1)の北で起こった。冬の強い伊吹おろしと急カーブにより、木製の車両を2両牽引した蒸気機関車が線路の東側へ横転した。現在でもその地点を掘ると石炭のかすが見つかる。
養老町の石畑の飛地であった鷲巣白山神社の西、通称二軒在家(字石畑)にはお地蔵さんがあった。教如上人(きょうにょしょうにん)の命を受けた、上石津町の唯願寺(ゆいがんじ)のご住職と門徒らが長島一揆に参戦する時に、このお地蔵さんを戦地へ運び、鎧を掛けて人のように見せかけて敵の目を欺いた。信長軍は、火縄銃で鎧を掛けたお地蔵さんを狙ったが、びくともしないため驚いて退散したといわれている。その後、そのお地蔵さんは鷲巣に戻された。お地蔵の法要等は浄誓寺から出向いて勤めていたが遠くて不便であったため浄誓寺に移動された。現在そのお地蔵さんは浄誓寺南の石仏群の地蔵堂の中心に祀られている。
鷲巣ではそのお地蔵さんのそばにサルスベリの木が植えられていた。大変立派な木だったのでお地蔵さんを移動させる際に、名古屋の庭師が譲ってほしいと言い、荷車にサルスベリの木を積んで帰途についたところ、その庭師は大怪我をして亡くなってしまった。因縁を恐れてしばらくは荷車ごとサルスベリの木が湊に放置されていたが、そのままでは枯れてしまうので、浄誓寺に移動されたお地蔵さんの側に植える事になった。やがてサルスベリの木に願い事をすると願いを叶えてもらえるという噂が立ち、夜中に釘を打って願(がん)をかける人がいたため木が弱り、伊勢湾台風の時にとうとう倒れてしまった。現在、地蔵堂の側に植えられているサルスベリの木はその後新たに植えられたものである。