養老町大巻高柳の山田貞策邸宅内に貞策が建てた修徳館(しゅうとくかん)というキリスト教の教会があった。現在は取り壊されており修徳館の跡が残っている。
邸宅の敷地はとても広く、揖斐川の堤防から修徳館の庭まで車で入ることができた。
修徳館は立派な洋館であり「晴耕雨読堂(せいこううどくどう)」とも名付けられていた。修徳館の屋根は赤色だった。養老の辺りにはまだないようなモダンな建物だった。治水工事関係の技師らがたくさん宿泊していた。
揖斐川の堤防から修徳館の2階へ繋がっており、結婚式場となっていた。村人の結婚式場として利用されることもあり、建物の中はとても立派でオルガンや燭台があった。
1階には多くの書物が並び、読書などができるようになっていた。
地下室もあった。昭和の始めに揖斐川の堤防補強工事のため修徳館は取り壊しとなったが、その工事がなければ現在も建物は残っていたと思う。
修徳館の跡地は茶室と石垣がそのまま残されている。本座敷は一時残していたが、現在はタケノコ林になってしまっている。
修徳館の茶室前の庭に置かれていた灯籠は、ご子息のA氏が修徳館を取り壊す際にお孫さんたちに記念として持つように勧められ、現在は山田貞策のお孫さんや福島のご子孫宅の庭に置かれている。山田翁の銅像はご子息が引き取った。
昔は修徳館の敷地の隣に山田家のお墓があったが、土地改良によりお墓は現在地に移された。

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高田に東雲座(しののめざ)という、枡席になっている芝居小屋があった。芝居小屋では、浅田光代の女剣劇を観た。そこで映画も上映していたかもしれないが、芝居が多かったように思う。

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飯田の相順寺に飯田在住の門徒が少ないことなどから、飯田は地域としてひと纏まりになっていないように思える。
歯医者さんや油屋さんなど、飯田から出て行く人も多くいた。最近、上石津から移ってきた人もいる。
飯田は比較的高い場所にあるので、水がつくことはない。祖父江では、明治29年(1896年)の集中豪雨時に、屋根まで水がついたそうである。それくらい標高が違う。養老町の中では比較的安全な場所であるのに、昔から人の出入りが多い理由は分からない。最近特に、飯田にはアパートや新築の住宅が多いと感じる。
養北小学校の西側のすぐそばに小畑村役場と農協があった。農協は昭和年代頃は道路の南側、字丸の内にある森川パーマ屋さんの場所にあったが、火災があって移動した。

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大正4年(1915)に養老鉄道の横転事故が古市石油(石畑1494-1)の北で起こった。冬の強い伊吹おろしと急カーブにより、木製の車両を2両牽引した蒸気機関車が線路の東側へ横転した。現在でもその地点を掘ると石炭のかすが見つかる。

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養老町の石畑の飛地であった鷲巣白山神社の西、通称二軒在家(字石畑)にはお地蔵さんがあった。教如上人(きょうにょしょうにん)の命を受けた、上石津町の唯願寺(ゆいがんじ)のご住職と門徒らが長島一揆に参戦する時に、このお地蔵さんを戦地へ運び、鎧を掛けて人のように見せかけて敵の目を欺いた。信長軍は、火縄銃で鎧を掛けたお地蔵さんを狙ったが、びくともしないため驚いて退散したといわれている。その後、そのお地蔵さんは鷲巣に戻された。お地蔵の法要等は浄誓寺から出向いて勤めていたが遠くて不便であったため浄誓寺に移動された。現在そのお地蔵さんは浄誓寺南の石仏群の地蔵堂の中心に祀られている。
鷲巣ではそのお地蔵さんのそばにサルスベリの木が植えられていた。大変立派な木だったのでお地蔵さんを移動させる際に、名古屋の庭師が譲ってほしいと言い、荷車にサルスベリの木を積んで帰途についたところ、その庭師は大怪我をして亡くなってしまった。因縁を恐れてしばらくは荷車ごとサルスベリの木が湊に放置されていたが、そのままでは枯れてしまうので、浄誓寺に移動されたお地蔵さんの側に植える事になった。やがてサルスベリの木に願い事をすると願いを叶えてもらえるという噂が立ち、夜中に釘を打って願(がん)をかける人がいたため木が弱り、伊勢湾台風の時にとうとう倒れてしまった。現在、地蔵堂の側に植えられているサルスベリの木はその後新たに植えられたものである。

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