養老町上方(うわがた)の白鳥神社についてまとめられた、「白鳥神社史」という冊子がある。
白鳥神社史は養老町の元上方区長の大橋鶴二(おおはしつるじ)氏、編集委員長を務めた高木佳又(たかぎかまた)氏、大橋敬二(おおはしけいじ)氏が発起人となり、高木正義氏、田中安次郎氏ら7人が編集した。
白鳥神社史にぬくとばの畑から出土した須恵器の話が出てくる。ぬくとばとは地元の人が呼んでいた通称ではないかと思われる。大橋鶴二氏の話によれば、氏が20代の頃(昭和20年代半ば)に上方の山の上の方にあるガラガラした石が散乱するぬくとばの畑へ作業をしに行った折に須恵器を見つけた。当時はその須恵器の価値がわからず、大垣市に住んでいた岐阜大学の林周教(はやしかねのり)先生に相談したということである。大橋氏からは畑の中から須恵器だけではなく剣なども一緒に出たという話も聞いたが、詳細が不明なので白鳥神社史には未掲載である。
白鳥神社のご神体である鰐口は写真でさえ見ると目が潰れると言われていたので、白鳥神社史の編纂作業時にはあまり調べていない。
白鳥神社史は60部か70部ほど刷った。
昭和20年代頃、養老町の上方(うわがた)周辺は全部田んぼで、大地主の農作業を手伝ったり、小作農をしていた。また、大半の家では養蚕も行っていた。その他にわら細工、筵(むしろ)作り、縄ないなどもしていた。
上方の山は石だらけで、資源になるようなものがない。
月給取りとして外に働きに出ると家の農作業に手が回らなくなる為、最初年配の人などは会社勤めを嫌っていた。地元の郵便局、役場、農協などに勤めに出る人が多かったが、名古屋まで通っていた人もいる。
牧田川の改修工事の日銭稼ぎは、百姓の青年達が行っていた。昔は、百姓の若者の就職先はなかった。月給で現金収入がある人は公務員等の人達だけであった。これ以外では、地主の家に手伝いに行って、5銭、10銭を稼いだ。
昭和39年(1964)頃、養老北小学校と養老南小学校が統合に関して昭和30年代から喧嘩をしていたが、いつまでたってもまとまらなかった。養老南小学校の代表者、山下氏と氏原氏は、二人とも強引であった。
昭和40年(1965)頃、PTA会長をしていた半田登喜代氏を交えて飲んで話しているうちに全員仲良くなってしまった。そこで、養老北小学校と養老南小学校を統合し、養老小学校とした。その頃は学校の統合が盛んで、岐阜県は統合した学校に補助金を出した。
半田氏は仕事の休み時間を利用して、よく岐阜県庁に単独で談判しに行った。お金はほとんど県から補助金がおりた。
養老小学校を作る時は、沢田の地主さんに毎晩頼みに行った。養老小学校の土地の地主は、沢田の人が多かったからである。当時の養老町長に、学校を建てるためには三町歩は買わなければいけないと進言したが、二町歩しか買わなかったので、後から残りの一町歩を確保するのに苦労した。素直に譲ってくれる人もいたが喧しい人もいた。しかしほとんどは、立派な学校ができるからと、先祖伝来の土地であるのに皆、協力してくださった。
高田小学校を移転する時は、取っ組み合いの喧嘩になり、代々の高田小学校を移す気か、そと者に何が分かるのか、とも言われた。今から考えても高田小学校が建っていた土地は狭いが、地元では「そこに三階建てを建てれば良い」とか「子どもたちを歩かせる気か」と言って、統合に反対した。高田小学校に通っていた子どもたちが住む島田から養老小学校は、歩いて20、30分くらいの場所である。その後、最終的に高田小学校と養老小学校は統合し、多芸も一緒になり、現在の養老小学校ができた。
良かったのか悪かったのかは分からないが、大きな学校になった。大勢の人から寄付を頂いた。寄付した机などに名前をいれるように言われたが、半田氏はそのようなことが嫌いで、相手が喜べばそれで良かった。
PTAの会合は夜でもあった。女性はあまりいなかったので、母親委員会と、色々なクラブ活動を作り、女性を4、5名役員にした。夜に役員会を行うが、大事な話よりも間に雑談が入るので、協議を先にして、雑談を後にするようにした。
国会でも徹夜するのに、徹夜もできないPTAならやめてしまえと言われたこともある。協議が済んだら、A氏や女性たちを烏江などに送ると、そこの家のおばあちゃんが待っていて、「御苦労さんでした」などと声を掛けられた。
養老小学校ができるまでは色々な人と喧嘩をしたが、その内皆と仲良くなり、一緒に遊びに行ったりもした。
昭和の半ば頃、養老では、「こどもの健康を守る会」を作り、耳鼻科、皮膚科のお医者さんを岐阜大学から呼んできて、毎年学校健診をしていた。その頃のこどもの体格は小さく、背丈が低く、体力はあまりなかったが、体は丈夫だった。当時のデータは保存していない。