石畑の太神宮は、土地改良により移転される前は、養老警察署の西側から石畑川を渡った右手にあった。現在はポンプ小屋が建てられており、太神宮は石畑の大桑(おおくわ)神社の境内に移転された。

太神宮の火袋台石の正面には「太神宮」、裏には「安政五年九月吉日」と建立年が刻されている。また竿石の正面には右から「村中安全」と刻されている。大桑神社前の道は往古より伊勢街道が通り、街道沿いには太神宮燈明が所々に建てられている。この燈明はやや小型であるが均整の取れた形である。多くの旅人が道中の安全を祈ったと思われる。

この燈明が建てられた安政年間は伊勢講の最も盛んな時代であった。

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養老町の石畑字東門には地蔵堂がある。その地蔵堂には、周辺に住む方々の私有地で見つかった石仏が集められており、その方々によりお世話をされている。

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石畑の人々は、柏尾谷からの水と井戸水を、生活用水として利用していた。
石畑の養老南小学校跡、現在のふれあいセンターの近くには、村人が共同で管理、使用していた水車小屋が2軒あった。
明治期には、石畑では養蚕が盛んに行われており、石畑川では養蚕器具などを洗っていた。
石畑と柏尾の東あたりでは種繭を飼育しており、雌雄鑑別を行う40人ほどの女工さんと東濃から来ていた指導員が、浄誓寺に泊まっていた。
石畑は水争いなどの問題もあり、生活の豊かなところではなかった。
昭和50年代初期まで、石畑川の養老警察署付近の燈明があったところで番水が行われていた。当番のところへ他の村の者が酒を持っていき、内緒で水を流してもらうこともあった。現在は石畑井組用水から取水しており、石畑では毎秒0.91㎥の用水が供給され、512haの耕地を灌漑している。

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石畑と周辺の村では土地や水利権の問題がよく起こった。柏尾から石畑へ水を引く際も揉めていた。
「石畑豊年米とらず」という言葉が伝わっており、これは石畑が豊作の年は他の村は水が付いて不作になり、逆に他の村が豊作の年は、石畑は水不足で不作になるということを表している。石畑のあたりは周辺の村より土地の標高が高く、扇状地のため砂利質である。
喜多村は明治期に石畑村に吸収されて消滅したが、石畑の小字として現在も残っている。
勢至と石畑はあまり付き合いがない。

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養老町の石畑にある浄誓寺(じょうせいじ)の裏の坂道を東へ下がったところに、人力車の取次所が2ヶ所あった。
人力車の取次所は、浄誓寺の地蔵堂の南の、現在「注意 最徐行」の看板があるあたりの山手側にあった。そこから養老公園へ向かう坂道が始まる。多くの旅人が利用した人力車であった。
大正天皇が行幸された時には、普段は一人で引いていた人力車を、前3人後ろ2人で引いて千歳楼へ向かった。

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