養老町の石畑字東門には地蔵堂がある。その地蔵堂には、周辺に住む方々の私有地で見つかった石仏が集められており、その方々によりお世話をされている。
石畑の人々は、柏尾谷からの水と井戸水を、生活用水として利用していた。
石畑の養老南小学校跡、現在のふれあいセンターの近くには、村人が共同で管理、使用していた水車小屋が2軒あった。
明治期には、石畑では養蚕が盛んに行われており、石畑川では養蚕器具などを洗っていた。
石畑と柏尾の東あたりでは種繭を飼育しており、雌雄鑑別を行う40人ほどの女工さんと東濃から来ていた指導員が、浄誓寺に泊まっていた。
石畑は水争いなどの問題もあり、生活の豊かなところではなかった。
昭和50年代初期まで、石畑川の養老警察署付近の燈明があったところで番水が行われていた。当番のところへ他の村の者が酒を持っていき、内緒で水を流してもらうこともあった。現在は石畑井組用水から取水しており、石畑では毎秒0.91㎥の用水が供給され、512haの耕地を灌漑している。
石畑と周辺の村では土地や水利権の問題がよく起こった。柏尾から石畑へ水を引く際も揉めていた。
「石畑豊年米とらず」という言葉が伝わっており、これは石畑が豊作の年は他の村は水が付いて不作になり、逆に他の村が豊作の年は、石畑は水不足で不作になるということを表している。石畑のあたりは周辺の村より土地の標高が高く、扇状地のため砂利質である。
喜多村は明治期に石畑村に吸収されて消滅したが、石畑の小字として現在も残っている。
勢至と石畑はあまり付き合いがない。
養老町石畑(いしばた)の浄誓寺(じょうせいじ)の地蔵堂には、浄誓寺やその周辺で見つかった多くの石仏や石塔がある。石仏は全体的に小振りで、銘の入ったものはない。
浄誓寺には石仏は多数あるが、骨壺があったという記録はない。最も古い石塔は、文明10年(1478)の五輪塔で、大きさも一番大きい。お堂に納められている石仏や石塔の大半は1400~1500年ごろのものである。名前が刻印されているものもあるが、浄誓寺に直接関係するものかどうかは不明である。浄誓寺にある石仏、石塔のほとんどは砂岩で造られており、海津市南濃町志津の谷から運ばれた石であると思われる。
毎年8月24日に、浄誓寺の地蔵堂で子ども達を集めて、地蔵盆が勤められる。