養老町橋爪(はしづめ)を流れる牧田川が西から南へと湾曲するあたりの牧田川堤防の北側、現在の名神高速道路の養老サービスエリアの所に霞堤が1番堤から4番堤まで約900mにわたって造られていた。いつ造られたかは不明であるが、その後、牧田川の川底がだんだん高くなってきて、牧田川堤内に水が溜まってしまうようになったため、溜まった水が自然に排水できるように利用された堤防である。堤防は高さ約1mだったと思われる。これらの堤防は名神高速道路建設に伴い撤去された。
1番堤から4番堤それぞれの堤防の間に溜まった水を排出するための仕掛けとして、始めはすべて喰い違いになっていた。やがて年代を経て2番堤から4番堤がつなげられたらしいが、堤の正確な造成年代や詳細については不明である。
1番堤は、牧田川の上流の堤防へ繋がっていた。牧田川の堤防は今よりも低い堤防だったが、昭和の改修で牧田川の両岸に大堤防が造られた。
1番堤から3番堤は西から南へ曲がる牧田川の水の勢いを弱めて、あふれた水を旧牧田川堤防沿いの水路を経て安久の字用水(ようすい)地内の水路に落とす働きをしていた。字用水地内に落とされた水は最終的に小畑川へ落とされていた。
4番提は、象鼻山南麓から長く南へ伸び、養老サービスエリアの南端あたりまであった。4番堤は高く長く作られており、1番堤から3番堤で弱まった水を本流へ戻す働きをしていた。4番堤の北端の位置ははっきり覚えていないが、その辺りも喰い違いになっていて、さらに昭和初期には荷物の少ない人が通れるだけの幅の橋があった。
昭和7年(1932)に始まった佐竹直太朗の牧田川改修工事で4番堤の南端と牧田川の本堤防を繋いで東へ延びる新堤防が出来た。
A氏が小学生の頃、1930年代には放課後に2番堤や3番堤の河原へ行って、その間で水泳をしていた。水難事故が起こって人が亡くなるようなことはなかった。
A氏が牧田小学校へ勤めていた頃は夜帰る時に蛍が一面にいて、眼に蛍が入るので眼を開けて歩けなかった。今は蛍は一匹もいない。
牧田川の旧堤防は土地宝典に記載がある。
中の諏訪神社の西にあった旧牧田川の除(よげ)あたりで土を採ったところ粘土1m、砂利1mのサンドイッチのような土層になっていた。橋爪辺りの牧田川では川底に土砂が堆積し天井川になっていた為、周辺ではすぐに水が湧いた。この辺りは粘土層で、畑でもガラと泥ばかりだった。さらに、昭和10年代の牧田川の決壊により、畑が砂利だらけになった。また水田に砂礫土が入ったことで、保水力が無くなり苦労した。
牧田川の河原の青石は上流の大垣市上石津町乙坂から流れてきている。
豊は慶安3年(1650)の大洪水で牧田川が決壊した時に大部分の区域が被害を受けている。
農民の一揆等は宇田辺りでは聞いたことがない。
青石=乙坂山から出る硬砂岩。
旧牧田川の除は中世時代のものと言われている。
表示位置は牧田川を示している。